信頼が名器を引き寄せた
金沢の極貧家庭から苦学の末、東大を首席で卒業し、恩師とともに会社を世界有数のポンプメーカーに育て上げた畠山一清が、最初に手に入れた美術品は古九谷の焼き物だったと言われる。
コレクション形成において、最大の資産は財力だけではなかった。
故郷・金沢では焼きものをなかなか手放さない文化があるという。それでも「畠山さんならば安心」「お嫁入り先としては畠山さんがふさわしい」という声が重なり、茶歴・収集歴を積み重ねるにつれて、より名器とされるものが一清のもとへ集まっていった。荏原 畠山美術館の水田至摩子学芸部長はそう推察する。
信頼の蓄積が、美の蓄積を可能にした。
その結果として一清の手に渡った名器のひとつが「油屋肩衝(あぶらやかたつき)」という茶入だ。江戸時代の松江藩主であり、近代を代表する数寄大名として知られる松江藩主の松平不昧(まつだいらふまい)が「最高の宝物」と位置付けたものである。
さらに、国宝でもある重要な古筆「離洛帖」もまた、松平不昧の旧蔵品だった。一清は美術館設立後、「油屋肩衝」と「離洛帖」を入手したという。
そこには一清の「武家好み」という指向も作用していたと水田部長は語る。戦国武将が所持した名品や、一国一城の価値があるといわれた茶入への執心。能登畠山氏の末裔として生まれた一清にとって、武家の美意識は血の中に流れるものだったのかもしれない。














