時代に翻弄される「宮家」歴史は明治時代から…

にわかに注目を集めることとなった「男系男子」と「旧宮家」。

時代に翻弄されたその歴史は明治時代に遡ります。

かつて明治の初めまで、天皇家以外の皇族を構成する「宮家」は「閑院宮」「有栖川宮」「桂宮」「伏見宮」の4つでした。ところが明治天皇は正室との間に子どもが出来ず、側室との間に生まれた5人の男子のうち4人が次々と亡くなり、成人したのは、のちの大正天皇ただ一人という事態に。

危機感を抱いた明治政府は、宮家の1つ「伏見宮」を頼ります。伏見宮邦家親王は、正室と9人の側室の間に、32人の子どもをもうけ、そのうち17人が男子でした。

明治政府は、邦家親王の男系の子や孫たちの分家・独立を認め、これが、のちの「旧11宮家」となったのです。

しかし終戦後、その11の宮家は皇籍を離脱、民間人となりました。

今回まとめられた「立法府の総意」は、この11宮家の子孫から「男系男子」を皇族の「養子」に迎えるというものでした。

皇室の制度と文化を研究し、政府の有識者会議にも招かれてきた所功名誉教授は、「宮家」と「男系男子」との関係について、指摘します。

京都産業大学 所功名誉教授
「明治22年に出来上がる皇室典範では、絶対“男系男子”でなければいけないという限定をつけた。当時は近代化して、欧米に伍していくため、政治的にも軍事的にも強固な日本をつくるため、やはり天皇が男子であり、そして皇族も軍人でなければいけない」

明治政府は、旧皇室典範において、皇位継承者を「男系男子」に限定します。

国家が戦争へと突き進む時代、「男系男子」の皇族は、必ず将校として軍に入隊。国民を動員するための、軍の権威付けに繋がっていきました。