米軍は木箱に遺骨を納めた
井上が驚いたのは、そのころ定説として語られていたことが、西川氏の証言によって次々に否定されたことだった。西川氏は、飛田場長らが「米軍のスキをねらって遺骨を取り出してツボに入れる」ことはあり得ないし、東條かつ子夫人が飛田場長から聞いたという「カマから出した遺骨を鉄鉢に入れて粉末にした」という話も否定している。
<井上忠男「巣鴨戦犯遺骨の埋葬秘話」人と日本(行政通信社 1975年新春号)>
(西川清治氏からの聞き取り)
その翌日のクリスマスイブに米軍警戒兵が付近に配備されていたという事実もない。いつも米兵たちは火葬が終わると遺骨を持って帰ってゆくのである。当時、西川氏は横浜市役所の衛生支部の職員組合副委員長をつとめていて、飛田場長からはいささか煙たがられる存在であったせいか、場長や三文字弁護士たちの計画した奪回の謀議にはあずからなかった。七氏の遺体が火葬されている間に、葬儀を終えた一般日本人の遺体も運ばれてきたが、火葬場には一切近づけず、離れの茶室で待ってもらった。
井上の調べでは、この日、民間人十六柱の火葬が行われていた。
<井上忠男「巣鴨戦犯遺骨の埋葬秘話」人と日本(行政通信社 1975年新春号)>
(西川清治氏からの聞き取り)
このような厳重な警戒と監視があったのは、A級七戦犯のときだけで、BC級の人たちの火葬をふくむ米軍人たちの火葬は、遺体が到着しだい当時八個あったカマのいずれかに入れ、待たせることもほとんどなかった。隊長たちは通訳とともに場長と会話を交わしながら作業の終わるのを待っていたりした。しかし、火葬の前に棺の中を見せてはくれない。火葬が終わると遺骨を取り出し、骨上げ台に運んで、作業員たちは米軍側が用意してきた木箱にそれらを納める。木箱は黒の漆塗りになる二重箱で、外箱が二十四センチ、幅十三センチ、内箱が十八センチに九センチの大きさのものであった。遺骨の取扱いについては決してぞんざいではなく、慎重、厳重な態度をくずさなかった。
新聞記事中の飛田場長の話では、所員が「遺体が明らかに日本人であること」から戦犯ではないかと場長に相談したことになっていたが、西川氏は棺の中は見ることはできなかったと話している。
















