反社会勢力排除の原点、そして終わりなき戦い
1990年代、東京地検特捜部が「政治とカネ」の闇に切り込んだ「ゼネコン汚職事件」と「新井将敬衆院議員事件」。熊﨑と猪狩は、2つの歴史的な事件で「検察側と弁護側」として対峙した。
しかし、熊﨑は検察庁退官後、後輩検事だった猪狩を頼ったのである。
「私は検察官としては二流に終わったが、ずっと一徹に生き、依頼者を裏切ることをせず、弁護士としてそれなりの成功を収めたものと密かに自負しているが、そんな私を信用してくれてのことだったのだろうと誇りに思っている」(「激突」猪狩俊郎)
猪狩を暴力団排除に突き動かしたものーその原点は、横浜地検で覚醒剤事件の捜査中、ある暴力団幹部に持ちかけられた裏取引だった。
暴力団組長はこう持ちかけてきた。
「組長なのに覚醒剤で起訴されたとなると、これからの私の立場がありません。起訴は勘弁してもらえませんか。子分に拳銃を出させます、5、6丁あると思います」
「拳銃押収」は、情報収集に高度な危険が伴う捜査だが、凶悪犯罪の未然防止の観点から、警察官にとって極めて大きな手柄とみなされ、高い評価につながる。
しかし、猪狩は心を鬼にして「裏取引」を断った。
「裏取引は覚醒剤の罪を起訴しない見返りとして、拳銃の押収に協力するというものだった。警察にとっては、喉から手が出るほど欲しい手柄ではあった。だがここで暴力団の取引に応じてしまったら、終わりだと思った」
猪狩は結局、覚醒剤事件の自白も得られず、組長を処分保留で釈放し、不起訴処分とした。無念の釈放だった。「せめて拳銃を押収したかった」と、訴えるような警察幹部の視線が忘れられなかったという。
プロ野球から始まった暴排運動は、その後、「Jリーグ」や「大相撲」でも適用された。そして今、あらゆるスポーツ観戦で暴力団関係者の出入りは禁止されている。
熊﨑と猪狩の関係は、師弟というよりも、戦友に近いものだった。二人が歩んだ道は、決して楽な道ではなかった。
だが、その道のりで生まれた静かな信頼があった。それは検察という枠を超え、人生という大きな時間の中で、確かに息づいていた。
「我々はこの社会にある不条理に鈍感になりすぎていないか。一切、こびへつらわない。それが一貫した私の生き方だった。細く長くではなく、太く短く花を咲かせる――そんな生き方だった」
死後に刊行された著書の中で、猪狩はそう記している。
(つづく)
TBSテレビ情報制作局兼報道局
ゼネラルプロデューサー
岩花 光
《参考文献》
猪狩俊郎「激突」光文社
熊﨑勝彦/鎌田靖「平成重大事件の深層」中公新書クラレ
清武英利「記者は天国に行けない」文藝春秋
読売新聞社会部「会長はなぜ自殺したか」 新潮社
村山治「市場検察」 文藝春秋














