プロ野球のルーツは、今からおよそ90年前に遡る。1936年2月5日、「日本職業野球連盟」が発足。7球団によって産声を上げた。
だが、その歩みは順風満帆ではなかった。翌1937年に日中戦争が始まり、1941年には太平洋戦争が勃発。プロ野球は、国家総動員体制の中で翻弄され、やがて中断を余儀なくされていく。
そして、敗戦――。
瓦礫の中から、プロ野球は「平和の象徴」として再出発する。原爆投下に見舞われた広島では復興の願いを背負い、広島カープが誕生した。1970年代に入るとテレビ中継が全国に普及し、プロ野球は国民的娯楽としての地位を確立していく。
しかし、その華やかな表舞台の裏で、スタジアムは長く「清潔で安全な空間」とは言い難い現実を抱えていた。
高度経済成長期から2000年代前半にかけ、阪神、巨人、中日など一部球団の「私設応援団」は、暴力団と深く結びつき、強大な影響力を行使していた。外野席を占拠する鳴り物入り応援、ダフ屋によるチケットの高額転売、みかじめ料の強要。球場は次第に「無法地帯」と化していった。
こうした歪んだ構造に、「法律」を武器に正面から挑んだ二人の元検事がいる。元東京地検特捜部の熊﨑勝彦と、かつての部下でヤメ検弁護士の猪狩俊郎だ。
プロ野球の暴力団排除活動に携わっていた猪狩は、「野球界の暴排には、クマさんの力が不可欠だ」と強く訴え続けた。その要請が実を結び、熊﨑は検察庁を定年退官後、プロ野球界へと身を投じる。
転機は、猪狩に寄せられた1件の「情報提供」だった。阪神タイガースの私設応援団の元暴力団員が「応援歌」を悪用し、巨額のカネを得ているというのだ。
猪狩は水面下で旧知の元警察官僚に相談し、突破口を探る。警察は「著作権法違反」という切り口で、暴力団の「資金源」に初めて法のメスを入れた。
だが、球界浄化への道のりは平坦ではなかった。中日ドラゴンズの私設応援団が「入場が拒否されたのは不当だ」と反発し、NPBと12球団を相手取って提訴したのだ。
これは、検事出身の二人の男と「反社会勢力」との闘いの記録である。プロ野球という「夢の産業」に巣食っていた闇と、彼らはどう向き合ったのか――。
関係者の証言や取材記録をもとに、その知られざる攻防の舞台裏を描く。















