弟は「真っ黒こげ」「運動靴にトモダと書いてあった」

1945年8月6日。友田さんは当時、小学4年生。たまたま学校に遅刻し、地下の下駄箱で靴を履き替えていたとき、広島に原子爆弾が投下されました。爆風で吹き飛び、腰を強打。足にガラスの破片が突き刺さりました。

(吾郷修司さん)「熱かったですか?」
(友田典弘さん)
「地下におったからね。熱いのは分からんけど、真っ黒になっとったよ」

(吾郷修司さん)
「熱くは感じなかった。なぜ熱くなかったかというと、地下にいたからなんです」

児童・教職員、約160人の中で生存者はたった3人。校庭には、無数の遺体が横たわっていたといいます。そして、その中に弟の姿が…

(吾郷修司さん)「弟はどういう状況だったんですか」

(友田典弘さん)「もう真っ黒こげ」

「運動靴にトモダと書いてあった…」「ごめんね、ごめんね、ごめんねと言って(立ち去った)」

父親は、すでに病死していて、母親と弟の3人で暮らしていた友田さん。母親との再会を信じて焼け野原をさまよいました。

(友田典弘さん)
「川に水が流れているのは真ん中にちょっとだけで、あとは全部遺体」

(吾郷修司さん)「家には何があったんですか」
(友田典弘さん)「家も何もなかったよ」

(吾郷修司さん)「家も何もなかった」
(友田典弘さん)
「ただ(自分の)自転車があってね。自転車が焼けて骨組みだけが残っていた…」

9歳で戦争孤児となりました。終戦後、友田さんを息子のようにいたわってくれた知人男性と現在の韓国へ。選択の余地はありませんでした。

(吾郷修司さん)
「とにかくついて行くしかない。もし、置いていかれたら死ぬかもしれない」

その後、渡った先では朝鮮戦争が勃発。砲弾が飛び交いいつ死んでもおかしくない日常を必死で生き延び日本に帰国できたのは24歳の時でした。