戦後80年プロジェクト「つなぐ、つながる」です。戦時中、日本の植民地だった台湾では、先住民らを徹底的に教育、日本人と同化させ、戦場に送りました。その中に、終戦を知らずに戦後30年間ジャングルに潜み続けた兵士がいます。その兵士が経験した戦後とは。

美しい海をのぞむ台湾東部の村に、その兵士の遺品があります。

孫・李秋美さん
「これは食べる時に使います。墜落した飛行機の部品で作りました」

作ったのは、李さんの祖父です。30年間、ジャングルで一人で暮らしていました。

スニヨンさん。日本名、中村輝夫。台湾の先住民族ですが、日本兵として戦場に向かいました。当時、日本は植民地だった台湾の人たちを日本人と同化させようと徹底的に教育したうえで、南方の激戦地に送り、戦わせました。

そして迎えた終戦。しかし、インドネシアのジャングルに潜んでいたスニヨンさんに、その知らせは届きませんでした。終戦を知らないまま、島に一人で潜伏し続けたのです。

年月の経過を、自ら確認しながら…

孫・李秋美さん
「棒を刺して、影の向きを見て1日を数えます。1か月経ったら羽を刺して、1年経ったら1つ結び目を作ります」

ボロボロの服。スニヨンさんが発見されたのは、戦後30年が経ってからでした。

スニヨンさん 1974年
「(Q.戦争に負けたことは知っていた?)知らなかった。自分は一人になった」

帰還したとき、スニヨンさんの妻は別の男性と再婚していました。息子は、再婚相手に実家に帰るよう説得しました。

息子・李弘さん
「(再婚相手に)十数万元の現金と、牛一頭と、お米を渡してようやく帰ってもらえたんです」

ようやく帰還したスニヨンさんですが、台湾出身の兵士たちは戦争が終わると「もう日本人ではない」とされ、軍人恩給など戦後補償の多くを日本から受けることができませんでした。

時の人となったスニヨンさんの元には、連日、見物客が押し寄せました。急激な環境の変化についていけず、やがて体調を崩し、帰還からわずか4年半で亡くなりました。

孫・李秋美さん
「せっかく帰ってきたのに、苦しんでいて悲しかった」

息子・李弘さん
「父は自分からあまり話しませんでした。長年、人と会ってないから、人が怖くなるのも当然です」

戦争について、家族に何も語らなかったというスニヨンさん。

孫・李秋美さん
「祖父は(子どもたちを)かわいがってくれました。すごい人でした。普通一人で山にいたら数時間でも耐えられないのに、30年もいたなんて。どうやって過ごしたのか、もっと知りたかったです」