「竹槍事件」が示す権力の暴走

日本軍は南太平洋の島々では撤退に次ぐ撤退、または全滅に追い込まれました。北に目を移すと、アリューシャン列島のアッツ島では日本軍守備隊2500余人が玉砕しました。

敗色が濃厚になっていた1944年(昭和19年)2月23日、報道管制が厳しさを増す中で、ある“とんでもない”記事が東京日日新聞(現在の毎日新聞)の朝刊1面に掲載されました。

「今こそ我々は戦勢の実相を直視しなければならない。戦争は果たして勝っているのか」「敵が飛行機で攻めにくるのに、竹槍をもっては戦い得ないのだ」

この記事は、事実を知っていながらウソを報じてきたメディアが、後悔と葛藤の中で、当時の日本国内で広く行われていた竹槍訓練(アメリカ軍の戦闘機を市民が竹槍で撃退する訓練)を皮肉り、「精神論だけでは勝てない」と軍部を批判したものです。

歌手の美輪明宏さんは、戦時下の少年時代を回顧し、「原爆に竹やり。かなうわけがないでしょ」と語っています。

この記事に、時の総理だった陸軍出身の東条英機は激怒しました。記事を書いた記者はこのとき37歳でしたが、懲罰的に召集令状が届き、二等兵として入隊させられました。この記事が発端となった一連の出来事は、のちに「竹槍事件」と呼ばれます。

この事件は、メディアが世論をかき立て戦争に突き進み、その後、事実を報じられなくなったことへの反省から生まれたものでしたが、権力はそれを許さず、暴走しました。