戦後80年プロジェクト「つなぐ、つながる」です。戦争の記憶をつないでいこうと、語り部として活動する山形県の女性。父親を知らないこの女性が家族の絆を感じたのは、戦地から何通も送られた手紙でした。

小山田扶二子さん
「(Q.お父さんとの写真?)着物着てるね」

山形県遺族会女性部の副部長として活動している小山田扶二子さん(83)は、太平洋戦争のさなかに満州で生まれ、2歳の時に戦争で父を亡くしました。

精悍な顔つきでカメラを見つめるのは、扶二子さんの父・小山田権蔵さんです。

軍人として満州に滞在していた権蔵さんと母・えいさんの出会いのきっかけは、兵士に日用品などを送る慰問袋でした。

小山田扶二子さん
「たまたま母が出した慰問袋が父に届いて、手紙が来たそう。4~5年そういう交換があった」

もともと家族や友人から送られていた慰問袋は、戦況の悪化に伴い、前線で戦う不特定多数の兵士宛に送られるようになったといいます。

そして、偶然にも、えいさんの慰問袋が権蔵さんのもとに届き、その後、結婚した2人の間に扶二子さんが誕生しました。

小山田扶二子さん
「(Q.3人での生活はどのくらい続いた?)1年半くらい。写真だけで会えなかったとか、そういう人も結構いるから、私は幸せな方」

扶二子さんが物心つく前に父・権蔵さんは、戦地・沖縄へ。

扶二子さんの自宅には、権蔵さんが戦地から家族に宛てた何通もの手紙がすべて大切に保管されていました。

小山田扶二子さん
「『大きくなっただろう』みたいなのは、いつも書いてあった。『年少の時からの教え・教育が大切だから十分注意してやりなさい』とか。しつけですね」

しかし、終戦の年の5月、権蔵さんは沖縄の銃撃戦で亡くなり、3人揃っての生活が再び戻ってくることはありませんでした。

小山田扶二子さん
「(母は)必ず帰ってくると思っていたらしい。父の手紙にもあったけど『万が一帰れたら』みたいなところもあった。万に一だから、ありえないってこと。ああいう戦場に行ったら」

当時、幼かった扶二子さんには戦争の記憶はもちろん、父親の記憶も残っていません。

小山田扶二子さん
「よその人の写真みたいで。父と母はいるけど。幸せだったんだねって思う。そういうときもあったと」

戦後80年が経つ今も世界では争いが絶えないことについて、扶二子さんはこう語ります。

小山田扶二子さん
「知らない人はリセットで元に戻るような感覚を持っている若い人がたくさんいるので、そういうことでは決してない。本当にこういうことがあったんだって伝えていくのが、私たちの義務かなって思っています」