盲爆を克服、被害を最小限度に食い止め…
創刊の翌年には、太平洋戦争が開戦。
その直後には、言論や出版などの自由を制限する法律が公布され、戦局の報道規制はさらに厳しくなりました。

(徳留さん)
「戦時中の空襲を伝えた当時の記事のコピーがあります」
終戦間近の1945年5月11日に宮崎市を襲ったアメリカ軍による空襲を伝えた記事。
(加藤AN)
「宮崎市を盲爆と書かれていますね」
(徳留さん)
「5月12日付の新聞なので、前日の空襲被害を伝えている紙面です」
記事には「一般市民は戦訓の数々をいかして見事に盲爆を克服、被害を最小限度に食い止め」などと書かれています。
しかし、実際は、現在の宮崎大学附属小学校に通っていた児童16人を含む、およそ40人が犠牲となりました。

さらに、延岡大空襲を伝えた紙面では…
(徳留さん)
「『腕試し 微笑む市民』という見出しがついているのですが…」
(加藤AN)
「延岡空襲の次の日に出された新聞ですよね」
(徳留さん)
「そうですね」
(加藤AN)
「延岡空襲の被害は大きかったと、記憶しているのですが…」
1945年6月29日未明、アメリカ軍のB29爆撃機が延岡市に焼夷弾を集中投下。
攻撃はおよそ2時間続き、市中心部の大半が被災し、即死者は130人に上りました。

なぜ、このように事実と異なる報道がなされたのでしょうか?
(宮崎日日新聞・戦後80年企画担当デスク 徳留亜弥さん)
「軍の当局からは、実際に現地の取材が禁じられていて、発表内容も軍の当局が指定した通りに書かなければいけないということで、こういった事実とは異なる見出しがついた紙面になっていると…」















