「日本すごい」の空虚さ—実体のない文化イメージ
戦前の万国博覧会で日本館が展示したのは、富士山、芸者、仏像といったステレオタイプな日本のイメージをモンタージュした巨大な写真壁画でした。そこには「何を発信するか」という内実がありません。
「ナチスドイツやソビエトの万博パビリオンは強烈なプロパガンダなのに、日本はのほほんとした『芸者・富士山』みたいなことを発信していた」
大塚さんはこれを「パブリックイメージ以前の日本」と呼び、現代のプロジェクションマッピングなどにも同じ問題を見ています。
「わけもわからずゴジラを出してみるとか。ゴジラがどういう風に日本の表象なのかと考えもせず、とりあえず並べておいたらなんとなく日本らしくなるだろう、と納得してしまう水準で日本が語られ、作られていく」
庵野秀明と戦時下アヴァンギャルドの系譜
大塚さんは、現代の表現者たちの中にも戦時下のモンタージュ的表現の影響を見出します。特に映画監督の庵野秀明さんについて興味深い分析を示しました。
「『新世紀エヴァンゲリオン』の最後のポスターがエッフェル塔をローアングルで撮っているでしょう? あれは1920年代のパリで撮られた前衛写真が元ネタなんです。知っている人が見れば『ああ』とネタばらしになっている」
庵野秀明さんの撮影スタイルについても言及します。
「庵野氏が写真を撮る姿を奥さんや娘さんが撮った写真があります。彼はどこに行っても地面に這いつくばったり、ひっくり返ったりして、下から撮っている。そうやって地べたにはいつくばり、あらゆる角度の写真を撮るというのは、ジガ・ヴェルトフというソビエトの映画監督がやっていたことなんです」
このような表現の系譜をたどると、戦時下のアヴァンギャルドを経由して、戦後のオタク文化に届いていることがわかります。
「僕らがオタクとして好きな表現を遡っていくと、戦時中に行き着く。特撮がたまらないと思っていたら、ゴジラの東宝特撮を経由して戦時中の特殊撮影に行く。そこで特撮がどう使われていたかというと、『リアルな戦闘シーン』を再現するため、つまり文化映画的な戦闘シーンを再現するためだったんです」
現代に続く「日本らしさ」の空虚な語り
大塚さんの指摘する問題は現代にも続いています。「日本文化」という言葉が検証されないまま使われ、「日本らしくない」という否定によってのみ「日本らしさ」が浮かび上がる構図は今も変わりません。
「モンタージュ的な手法は現代でも情報を操作する手法として生きている。『切り取り』という言葉自体がモンタージュで、自分の意に沿うモンタージュならいいけれど、意に反するモンタージュをされたら怒る」
日本文化について語るとき、私たちはしばしば「日本的」というだけで、日本が何かという議論をしていません。「日本らしさ」とは、結局のところ、様々なイメージの断片をモンタージュして作られた虚構なのかもしれません。それを自覚することが、文化を語る上での第一歩ではないでしょうか。
(TBSラジオ『荻上チキ・Session』2025年11月24日放送「『日本文化論』はどう創られてきたか?」より)














