「日本文化=モンタージュ」という誤解の始まり

エイゼンシュテインは「日本文化をモンタージュとして論じる」という文章を書いており、それが翻訳されて日本に入ってきました。この中で漢字、俳句、能や歌舞伎の演技などが「モンタージュ的」と論じられています。

「例えば漢字は『偏(へん)』と『旁(つくり)』があります。『さんずい』は水の象形文字ですよね。たとえば涙を意味する『泪』という字は、『さんずい』という象形文字と『目』という象形文字をモンタージュすると涙になる。歌舞伎や能の動作も、手だけ先に動かして、次に右手が動き、その後にゆっくりと左手が動いて……と動作が分断されて連続する。これもモンタージュだ」と。

しかし、エイゼンシュテインの結論は「日本映画はモンタージュではない」というものでした。これは、ソビエト社会主義陣営の理論家として、「日本文化をモンタージュだと賛美しておきながら、しかしお前たちはまだモンタージュを知らない。我々の陣営に来い」という政治的意図があったと大塚さんは分析します。

「外国人から褒められると喜んじゃうという悪い癖があるわけです。『我々はそうだったのか』と思っちゃって。この翻訳が出た後に日本文化モンタージュ説が1つの社会現象になった」

日本文化論の転倒—解釈が本質にすり替わる

この日本文化モンタージュ説は、昭和10年頃に広く流布していきました。そして奇妙な転倒が起きます。「日本文化がモンタージュ的」というより、「日本文化の一部、特に近代メディアや新しい表現をモンタージュ化していく」という現象が起きたのです。

例えば、「絵巻物はモンタージュだ」という主張が美術評論家や技術評論家から出てきます。しかし、これは「モンタージュのように絵巻物を見る」ことであって、「絵巻物がモンタージュ」なのではありません。解釈のひとつに過ぎなかったものが、本質だと言われるようになったのです。

「日本文化=絵巻物=モンタージュ的みたいな風に意味がスライドしていく。日本文化論がモンタージュ論と同義になり、モンタージュ論に飲み込まれていく」

モンタージュ化する日本の表現—紙芝居の近代的発明

モンタージュ理論が日本文化の解釈に影響を与えただけでなく、実際の表現方法にも影響を与えました。その象徴的な例が「紙芝居」です。

「紙芝居は下町情緒的なもので、どこか日本の伝統的な文化だと思われていますが、江戸時代に紙芝居はありませんでした。時代劇で紙芝居が出てくるシーンがないはずです」

現在の紙芝居の原型は昭和初期に生まれたもので、加太こうじという人物が「モンタージュ論」を取り入れて改革したといいます。加太こうじは紙芝居業界の人物でしたが、当時モンタージュという概念が広く浸透していたことを示しています。

「彼はアップやロングショットなど、映画的な手法を取り入れて紙芝居を革新しました。そして日中戦争を経てアジア太平洋戦争が始まると、紙芝居はプロパガンダのツールとして一気に使われるようになる」

戦時下のプロパガンダと戦後の広告産業

戦時中、モンタージュ技法は映画でも活用されました。特にドキュメンタリー映画(当時は「文化映画」と呼ばれた)でモンタージュが多用されます。これらは映画法によって事実上の強制上映となり、戦争記録映画から科学啓蒙映画まで様々なプロパガンダ映画が作られました。

「かつて左翼思想の映画運動に参加していた映画人たちが、戦時中に転向してそういった映画に手を染めていく。彼らはソビエトのモンタージュ論的な映画の作法を使いながら、日本のプロパガンダ映画を作っていった」

興味深いのは、これらの表現手法や人材が戦後も生き延び、広告産業に流れていったことです。

「戦時中のプロパガンダに関わった人たちが戦後に生き延びていきながら、戦後のメディア産業をかたちづくっていった。クライアントが変わっただけで、方法論自体は変わっていない。広告というのは元々プロパガンダなんです」