兵学校に入った時から生命の危険は覚悟

金井弁護士から幕田トメへの手紙

<金井重男弁護士から幕田トメへの手紙 1950年4月8日>
六日、七日は東京はひどい雨でした。咲き始めた桜もたたき散らされ、其は稔様の運命を象徴していました。六日の未明には就寝中の私は烈しくうなされ、皆様がお別れに来られたことを後で悟りました。生涯の努力を傾けた私としても、結果に対し、ご期待に添え得なかったことは、重々、申し訳なく存じており、お詫びの言葉もありませんが、今では、非は先方にあり、彼等が将来苦しむ時が来るものと考え、沈憂の中にも、光風霽月(こうふうせいげつ)の心境に到達し得ました。
何卒、かくなりましては、戦死されたものと(本当に戦死なのですから)おあきらめなされ、残っておられるお子様方を力に、できるだけ早く悲愁から脱出せらるることを、ひとえに祈り上げます。

ご遺骸は、横浜の米軍の共同墓地に葬られたと聞いておりますが、家族の参拝などはまだ許されません。いずれ占領の終了時には何とか、話があることと存じます。軍事裁判は、普通の裁判ではありません。それは戦争の継続なのですから、決して、普通の裁判のように身狭まにお考えになる必要はありません。兵学校に入られた時から生命に対する危険はいつも覚悟しておられたとお考えになることにより、おあきらめ下さい。