戦後80年プロジェクト「つなぐ、つながる」です。きょうは、戦争がもたらす心の傷について考えます。優しかった父を変えた沖縄戦とはなんだったのか、平和ガイドとして歴史に向き合う男性の思いです。

金城優さん
「これ、親父」

八重瀬町出身の金城優さん(85)。見せてくれたのは、1枚の家族写真です。

金城優さん
「写真では順調ですけど、やっぱり(表情は)険しいですよ」

険しい表情でカメラを見つめる金城さんの父・精光さん。

精光さんは、旧日本軍として沖縄戦に従軍し、激しい戦闘を生き延び、命をつなぎました。

しかし、戦後、以前の優しかった父の姿はなく、家族に対して次第に暴力をふるうようになったといいます。

特に祖母や母への暴力は激しく、頻繁に叩きつけ、“敵”と呼ぶことさえもありました。

金城優さん
「電線を巻いて束ねて柄をつけて、ムチですよ。殴るムチをつくって、主に祖母を殴るんですよ。憎かったですよ」

精光さんは精神疾患を抱え、錯乱状態になることも多く、最後には自ら命を絶ちました。

金城優さん
「親父もそれなりに悩んでいたのかなと思った。首をつるくらいだったら、相当、苦しかったと思いますよ、本人も」

父・精光さんが所属していた「独立高射砲第27大隊」は、アメリカ軍との激しい戦闘を繰り広げ、隊全体のおよそ8割が戦死しました。

「独立高射砲第27大隊」の本部壕。金城さんは退職後10年以上にわたり、平和ガイドの活動を続けています。

金城優さん
「極限状態を味わっただろうなと思う。いま火炎放射器で焼かれるか、いま手榴弾を投げ込まれるか。そういう状態だったと思いますよ」

過酷な戦場で、父は何を見たのか。生前、戦争の話をすることはほとんどなかった父の足取りを追うことで、見えてきた悲惨な沖縄戦の現実がありました。

金城優さん
「戦争がうちの父みたいなものをつくりだす。家庭を不幸に陥れる。まずは戦争をしないこと」

戦後も体験者の心の奥に留まり続ける戦場の記憶。金城さんは、これからも父を変えた沖縄戦に向き合い、平和を願い続けます。