◆日大政経専門部から学徒出陣

死刑を宣告される成迫忠邦(1948年3月16日米国立公文書館所蔵)

この「七人を偲びて」の中に、成迫忠邦への追悼文があった。書いたのは、佐賀県出身で二等兵曹だった吉原剛。成迫と同い年だ。一回目の再審で死刑から重労働二十年に減刑された。

<成迫さんの思い出 吉原剛 「七人を偲びて」1951年>
武蔵野の一隅にある白亜の孤島、巣鴨で非業の死をとげられた、今は亡き七人の方々を追想するとき、先ず心の一隅からよみがえって来るものは、成迫忠邦君のはつらつたる若きにあふれていた在りし日の面影である。

大東亜戦も末期の様相を呈し、マキン、タラワの玉砕が伝えられた昭和十八年の十月、大学高専在学々生の徴兵延期停止が施行された。そのために日大政経専門部に在籍していた君は、国家の要請する至高の義務を果たす為、学業半ばにして同年十二月十日、相ノ浦海兵団に入団されました。

君とはじめて知り合ったのは、そこで三か月の基礎訓練をうけている時でしたね。それからは佐世保警備隊に勤め、昭和十九年五月館山海軍砲術学校に入校し、君は二十一分隊に、自分は二十二分隊に配され、同年八月、陸戦科を卒業し、あと一か月間、迫撃砲の講習をうけて佐世保に帰りました。それから九品寺、石垣島と隊こそ違っていましたが、仲良く助け合ってきました。

◆新たな人生を切り開く前に巣鴨へ

日本大学学徒出陣壮行式(日本大学ヒストリアより)

村民500人の木立村で唯一の大学生として日本大学で学んでいた成迫は、まもなく19歳になろうかというときに学徒出陣で海軍に入り、20歳で石垣島事件の現場で命令に従って米兵を銃剣で刺した。スガモプリズンに収監されたときは22歳だった。

<成迫さんの思い出 吉原剛 「七人を偲びて」1951年>
無事、復員して新しく人生を切り開こうとしている時、又ここで一緒になり、お互いに身の不遇をかこち(嘆き)ましたが、その間一番親しくしたのは死刑囚の時、五棟の独房で約四カ月一緒に暮らした時でした。その時の思い出が一番身近に私に迫って来ます。

君も私と同様、幼い時に父親に死に別れ、お母さんの手で育てられて来ました。それだけにお母さんのことをとても気にかけていましたね。「俺の”母じょ”は俺を一番大事にしてくれた。今度出たらうんと親孝行をしよう」と、母を想い、母の慈恩のありがたさにないていました。