国立国会図書館のマイクロフィルムに残されていたスガモプリズンの記録。撃墜された米軍機の搭乗員三人を殺害してBC級戦犯に問われることになった石垣島事件で、死刑が執行された7人のうちの一人、成迫忠邦。20歳で現場に居合わせて命令によって米兵を銃剣で刺した成迫は、日本大学で政治経済を学んでいた学徒兵だった。スガモプリズン最後の処刑となった1950年4月7日の翌年、一周忌に寄せられた同房の友からの追悼文には、純情で心温かい青年を惜しむ言葉が並んでいたー。
◆歯の治療で裁判を11日欠席

マイクロフィルムに残されていた成迫忠邦の個人データには、スガモプリズンに入所した1947年6月30日に撮影された顔写真があった。原本を白黒コピーしたものなので、あまりきれいではないが、それでも端正な面立ちだったのが分かる。身長は5フィート4インチ(約163センチ)、体重は122ポンド(約55キロ)だ。誕生日は1924年12月27日なので、入所時は満年齢で22歳。当時は数え年なので、成迫は25歳と答えている。職業は農業だ。成迫の家は大分県南海部郡木立(きたち)村の大きな農家で、父は亡くなっているが母や兄弟、その妻がいて、家族は5人と答えている。
面会人の記録をみると、入所して半年後の12月5日に歯科医が訪ねている。横浜軍事法廷での石垣島事件の裁判はその年の11月26日から始まっているが、歯科医の訪問後、12月12日から29日までの間で11日分、通院の証明と裁判を欠席する届が出されていた。簡単な処置ではすまない病気があったのだろう。拘置所内の対応としては手厚い印象を受ける。