◆「どれだけ泣き叫んでも、本人は二度と目を覚ましてくれない」

事故の連絡を受けた両親は、病院で、友規さんと対面します。

両親は病院で友規さんに対面(遺族提供)


母親:病院の方で息子の状態をきれいにしてから会わせてくれました。

息子に会って初めて現実に引き戻された状態で、「本当に友規だったんだ」と。そこでようやく認めるしかなくて…。抱きしめたところで、もう、朝早い事故だったので、完全に体も冷たくなっていて…。

どれだけ泣き叫んだところで、本人はもう二度と目を覚ましてくれないので、虚しさと悔しさだけ…。

父親:私が、息子が安置されている病院に着いたのは、妻の到着の3時間後くらいだったと思います。あまりにも突然のことで、現実味がなさすぎたなと思います。「本当に死んでしまったんだな」という思い。

病院の方が、息子が運ばれてきた経緯や状況を医学的に丁寧に説明してくれたので、何が起こったかはだいたい分かりました。一方で、事故の瞬間を回避できない限り、時間は戻せないなという気持ちでした。

◆「あの子はみんなに好かれていたんだな」200人以上の友人らが葬儀に参列

友規さんは釣りが大好きで、この日も、翌週友人と行く釣りの下見に行った帰り道に、事故に遭いました。

事故現場にあった釣り道具(2024年9月)

母親:大学院生なので、私たちにどこへ行くかは言うわけではなかったです。その時は3連休で、本来なら私が車を使って主人の所へ行く予定でしたが、「車を使わせて欲しい」と言われたので、どこか行きたいのだろうなと。デートか遊びにでも行くのだろうと思い、「いいよ」と。目的は聞いていませんでした。

事故の後、娘に聞いたら、「ちょっとこれから釣りに行ってくるわ」と言っていたと。釣りの帰りだったというのは聞きました。

母親:子どもの頃から釣りはずっと好きでしたが、家族は誰も釣りに興味がなかったので、大学生になってから釣り好きの友達と本格的に始めたのが本当のスタートでした。

釣りが大好きだった友規さん(遺族提供)

いつもは釣り仲間と行くのですが、その一人が留学中で、次の週に札幌に帰って来るから、友達には「ちょっと下見を兼ねて偵察してくる」と言っていたようで、一人で行った帰りの事故だったと、後から聞きました。

その年のゼミ旅行のパンフレットは日程表も全部息子が作っていたと、後で先生から聞きました。みんなを喜ばせるために何かを準備して行動するのが好きだったんだと思います。

友達もすごく多かったです。お通夜とお葬式にあれほど人が来るとは思っていませんでした。もう、あんなに来るとは思っていなかったので、「あの子はみんなに好かれていたんだな」と思いました。200名以上はいらっしゃっていて、人が多すぎてあがることができなかった方もいたと聞いているので、もっと多かったのかもしれません。小学校、中学校、高校、大学の友人と、バイト先の人たちが来てくれました。

―――事故後、周囲の人たちからは、友規さんについて、どんなことを聞きましたか?
母親:あったことは何でも私に話す子だったので、息子の友人たちと「そんなことあったね」と思い返せるくらい共通の話題がたくさんありました。

本当にみんな「優しくていい子だった」と話してくれて。大学のゼミのお友達からも「とにかく優しくて」と。

後輩からは、「困ったことがあったら何かやるよ」と声をかけて色々教えてくれる、すごく頼りになる先輩だったと聞きました。みなさん、「常に気にかけて声をかけてくれる先輩だったので、悔しいです」と言ってくれていました。面倒見が良くて、困っている人を見ると、見過ごせない知らないふりができない子でした。

―――ご両親から見て、友規さんはどういうお子さんでしたか?
母親:とにかく優しくて面倒見がいい子というのは誰からも言われる子で、社会に出しても恥ずかしくない、まっすぐに育ったいい子だと感じていました。3人兄弟の一番上だったので、下の子たちの面倒もすごく見ていました。

子どもの頃の友規さん(遺族提供)


将来、結婚して子どもができても、一生懸命家族を守ってくれる素晴らしい子だっただろうなと思っていました。