世界陸上でも自己新にこだわる理由は?
世界陸上の予選が実際、どのくらいのペースになるか決まっているわけではない。22年オレゴン世界陸上は、6組中5組が2分00~01秒台でフィニッシュした。自己記録を出せる確率は半々だろう。
それでも久保が自己新にこだわるのは、東大阪大敬愛高での3年間を、常に自己記録更新を目標としてきたからだ。野口監督が以前の取材で次のように話したことがあった。
「タイムが遅い選手でも自己新を目指していますし、自己新はその選手にとってまだ見ぬ景色を見ることになる。そこに向かって努力をすることは、どんなレベルの選手でも変わりません。久保に対しても2分を切ろう、標準記録を切ろうと言ったことはなく、自己記録を出そうと3年間言い続けて、今の記録になっています」
久保が「絶対に自己新」と話すのは、そのスタンスを3年間貫いてきたからで、それが平常心で戦う方法にもなる。世界陸上を戦うのはチームで自分1人でも、自己新を目指すことで、チームメイトと一緒に戦っている気持ちになれる。
もう1つは「ブブカ、デュプランティスの世界新記録と同じです」と、野口監督が話したことにヒントがある。今年の日本記録が昨年から0.41秒の更新で、世界陸上参加標準記録の1分59秒00にあと少しで届かなかった。“もう少し頑張っていれば”という声も耳に入っていたはずだ。
そのときに野口監督が引き合いに出したのが、棒高跳のレジェンド2人である。1980~90年台に世界記録を17回更新したS.ブブカ(ソ連→ウクライナ)と、今大会で14回目の世界記録更新をしたA.デュプランティス(26、スウェーデン)。2人とも1cm刻みで世界記録を更新してきた。
「800mは0.4秒でも距離にすると3mくらい違うので、それ以上の記録更新となると厳しいものがあります。0.1秒でも0.2秒でも、少しずつ縮め続けてていく方がいい。次の目標を高く設定しても、モチベーションが持たなかったら逆効果ですし、近い目標ならリラックスして臨めます。練習も無理せずに継続できる」
実は久保のポイント練習の設定タイムは、野口監督が決めているわけではない。久保は「ペースは何も考えずに走っています」と言う。つまりその日の状態に合わせ、目指す試合もイメージしながら自身で強弱をつける。「その日限定の走り」だという
それでも久保の練習のタイムは年々上がっている。ポイント練習だけでなく、他の選手のポイント練習なみ、と評判のウォーミングアップも、ポイント練習後に行う短い距離のフリーの走りも、タイムはすべて上がっていると野口監督は明かしている。
日頃の練習のレベルが高いから、世界陸上だからといって特別なことは行わない。それが久保の世界陸上に臨むスタンスだ。
「世界陸上に出場できること自体楽しい」(久保)
練習のタイム設定を自分の感覚で行っているが、久保の設定が甘くなることはない。
「久保は身体面の能力が優れているだけでなく、心の面で自分に絶対負けません。どんなメニューを提案しても、嫌な顔一つしませんし、設定したタイムを切れなくても、次の練習で必ずクリアするんだ、という思いが非常に強い。アスリートとして一番大切な、人間力が高いのです」
野口監督の指摘した人間力は、普段の練習や日常生活の過ごし方で重要になる。それに加えて久保自身が今季、試合に臨むメンタル面の重要性に気がついた。そこで久保が意識しているのが“楽しむ”こと。「シニアでは初めて、日の丸を付けて世界で走ることができます。出場できること自体楽しいですし、全力で楽しみたいと思っています」。
この考え方に至ったのは、世界陸上を目指す今季のプロセスで失敗と成功を経験したからだ。5月3日の静岡国際は2分00秒28で優勝し、次戦の木南記念(5月11日)は地元大阪の大会ということもあり、日本新記録を狙っていた。だが2分02秒29かかり、ゴール前では豪州選手にも抜かれて2位に。そこから立て直して5月31日のアジア選手権は、23年アジア室内選手権優勝の中国人選手には敗れたが、2分00秒42で2位と合格点の走りだった。
「静岡で良い走りができて、地元の木南記念で絶対に記録を出さないといけない、という気持ちが強すぎて上手くいきませんでした。自分でプレッシャーを感じたり、絶対に勝たないといけないと思い詰めたりすると、力んでしまいます。アジア選手権は初のシニア日本代表なので、そこからはどんどん楽しんで走ろうと思えてきました。今回は初めての世界への挑戦ですし、ベストを出すだけと考えれば楽しむことができます」
自己新を出す。自分のリズムで走る。大きな大会を楽しむ――すべて久保が、ずっと行ってきたことである。いつもの高校生らしい走りを世界陸上でもできれば、予選通過の可能性が高まるはずだ。
(TEXT by 寺田辰朗 /フリーライター)