戦争を体験した人やその意思を継ぐ人、それぞれの思いをシリーズでつなぐ「#あなたの623」。今回は80年前、戦時下の沖縄で産声をあげ、戦場を生き延びた真喜屋光子さん(80)です。壕の中での母親の決断が、真喜屋さんの生死を分けました。



▼真喜屋光子さん(80)
「ちょうど月夜の晩だったので、光子とつけたと聞いていますね」

真喜屋光子さん。いまから80年前の1945年、米軍が沖縄本島に上陸する2か月前に生まれました。当時20歳の母は、祖母とふたりで、那覇から実家のある名護へ避難する途中に産気づいたといいます。

「避難途中で産気づいた母が、どうしようと思ったときに、大きなお屋敷があった。戦争中で馬がいないから、馬小屋なら空いているということで、そこに産床を作ってもらった」

乳飲み子抱え逃げ込んだ壕で目にした悲劇

父は徴兵され、我が子の誕生を知る由もありませんでした。乳飲み子を抱えた母が北部への避難を再開したのは、米軍上陸後。鉄の暴風をしのごうと、壕に逃げ込みますが、思わぬ選択を迫られることになります。

「壕の中に日本兵もたくさんいて、赤ちゃんを連れた人たちもみんないるわけですよね。そしたらそこで、『赤ちゃんを抱いている人は赤ちゃんを出しなさい』と―。『この子が泣いたら、結局米兵に見つかる。自分たちが殺してあげるから』みたいなことを言われた」