「戦後80年プロジェクトつなぐ、つながる」です。今回は、耳が不自由な中で、焼い弾による火の海の中を必死に生き延びた93歳の男性の証言です。男性は、この富山大空襲での体験を今も手話で語り継いでいます。

富山市のデイサービスで穏やかな時間を過ごしている竹川秀夫さん(93)です。

富山大空襲を体験した 竹川秀夫さん
「みんなと一緒に紙飛行機を作ったりするのが楽しいです」

竹川さんは富山大空襲の体験者です。当時、父は出征していて、母親と姉、弟との4人暮らし。竹川さんと姉は生まれつき耳が不自由でした。

富山大空襲が起きたのは、1945年8月2日未明。174機の米軍爆撃機・B29が富山市の中心部に50万発以上の焼い弾を投下しました。

空襲警報が鳴ると、母・チヨさんは耳の不自由な竹川さんの肩をたたいて起こし、帯で自分と子どもたちを縛りました。

富山大空襲を体験した 竹川秀夫さん
「首を絞められて殺されるんじゃないかと思ったけど違っていて、お母さんが子どもたちがバラバラにならないように帯を取った」

家族は防空壕に逃げ込みましたが、そこにも火が迫ってきます。

富山大空襲を体験した 竹川秀夫さん
「まるで龍のように火が押し寄せてきた。音が全然聞こえないから、見て判断するしかない。防空頭巾がずれて逃げられない。頭巾がかえって危なかったので放り投げた。いらない、いらない、危ない」

一夜で市街地は焼き尽くされました。被災者はおよそ11万人、推定3000人が犠牲となりました。

竹川さんは、戦時中の暮らしや空襲について詳細に調べて資料をまとめ、手話による「語り部」として活動してきました。

竹川さんの活動をサポートしてきた手話通訳士の針山和雄さんは、こうした聴覚障害者の戦争体験を次の世代に伝えようと証言を記録してきました。

手話通訳士 針山和雄さん
「そういう証言を残していって、みんなに伝えていくということが非常に大事だということを聞こえない人たちの活動から学んで、私自身がもっとがんばらなければならないと感じた」

鉄の塊が雨のように降ってきた空襲の恐ろしさを伝えるため、竹川さんは焼け跡で見つけた焼い弾のかけらを大切に保管してきました。

富山大空襲を体験した 竹川秀夫さん
「海外ではいまだに戦争が起きているけど、本当にダメです。ずっと平和であってほしいと思います」