半年後に「容疑者」逮捕

事件発生後、約半年が過ぎた8月、当時53歳の画家・平沢貞通容疑者(当時)が逮捕されました。
平沢は実力派テンペラ画家として有名な人物でしたが、以前よりコルサコフ症候群(狂犬病予防接種の副作用)にかかっていて、言動が不安定だったといいます。

容疑者は北海道で逮捕されたため、上野駅は押すな押すなの大混雑となりました。

平沢は当初容疑を否認していましたが、やがて自白に転じました。しかし、供述内容には一貫性がなく、後に「自白は強要されたものだった」と撤回しています。現場からは決定的な証拠が見つからず、有罪の根拠となったのは状況証拠や曖昧な自白が中心でした。

死刑囚のまま45年

戦後間もなくのこと、捜査は「自白こそ最大の証拠」のポリシーで執り行われたといいます。

1950年、東京地裁は平沢に死刑判決を言い渡しました。以後の控訴、上告もすべて退けられ、55年に死刑が確定します。しかし、その後の歴代法務大臣はいずれも執行命令を出さず、平沢は死刑囚のまま獄中で39年を過ごし、1987年に95歳で病没しました。

「冤罪」の可能性

この事件には当初から「冤罪ではないか」との疑念がつきまとってきました。犯人とされる男の「人相書」と平沢の顔や背格好がまるで似ていないこと、犯行に使われた青酸カリの入手経路が不明であること、そして犯行の手口があまりに専門的であることなど、数々の疑問点が指摘されてきたのです。

平沢貞通元死刑囚は獄中で45年間を過ごしました。見ての通り「人相書」と似たところがどこにもありません。

また、戦後間もない時代という特殊な背景の中で、GHQ(連合国軍総司令部)や旧日本軍の特殊部隊との関係をうかがわせる情報もありました。一部には「真犯人は軍やGHQ関係者で、平沢はスケープゴートにされたのではないか」などといった説すら唱えられています。

すべては謎のまま

平沢の支援者らは、合計19回にも渡って再審を請求しましたが、すべて棄却されました(現在20次再審請求中)。
平沢が死去した今となっては、真相はすべて闇の中です。

帝銀事件について書かれた本、上申書、還暦祝いの赤いチャンチャンコなどが「平沢貞通93歳展」に展示されました。