戦後80年プロジェクト「つなぐ、つながる」です。原爆が落とされた広島に、爆心地から離れていたのに原爆で様子が一変した村があります。苦難の人生を歩むことになった住民たちを取材しました。

広島の爆心地から10キロ離れた旧川内村で、戦後まもなく撮影された写真。女性や子どもが多いことが分かります。爆心地から離れた村で何があったのでしょうか。

平和公園のある慰霊碑を訪れた横丸正義さん(94)。

横丸正義さん
「(Q.お父様はどちらに?)これです」

原爆で父の正留さんを亡くしました。

横丸正義さん
「この辺にお寺があって、そこへ弁当を置いて仕事をしよったらしいです。家をめいで(壊して)、木を除ける」

当時、広島では空襲による火災の延焼を防ぐため、建物を壊しておく「建物疎開」の作業が市内各地で行われていました。あの日、横丸さんの父親ら川内村の人たちは、国民義勇隊として爆心地近くでの建物疎開に従事していたのです。

横丸正義さん
「多いのう」

働き盛りの男性など、200人近くの命が一瞬にして奪われました。

横丸正義さん
「(Q.お骨は?)結局、どこにどうなったか分からない」

母・露子さんも正留さんを捜しましたが、見つからなかったといいます。

同じように一家の大黒柱だった夫を亡くした村の女性は、およそ70人といわれています。子どもと共に残された女性たちは、苦しい生活を強いられました。

横丸正義さん
「米や麦を収穫する時には、夜9時頃にはまだ田んぼの中にいる。仕事に一生懸命だった。子ども養わないといけないから」

40年前、JNNが川内の夫を失った女性たちを取材した映像が残っています。当時83歳の高崎ハルさん。残された女性たちで励ましあっていたといいます。

原爆で夫を亡くした高崎ハルさん(当時83)
「海行って『おとうさーん』とみんな言いなさいって言って、家でそのように大きい声できないから。いろんなことで慰めあったり」

原爆投下の翌月から行われている月命日の法要の場でも、お互いを励ましあってきました。法要は80年引き継がれ、今の住職が三代目。年々参加する人が減っているといいます。

浄行寺住職 坂山厚さん(76)
「だんだん、だんだん(当事者が)亡くなっていくなと。これからも何とかこれを聞いて、残していかなきゃいけないな」

戦後80年。被爆者、そしてその家族の思いは、戦後生まれの私達の世代が引き継いでいかなくてはなりません。