豊村も1940年から大陸へ渡り、四道河と呼ばれる場所に入植しました。その数は160人を超えたといいます。

郷土史研究家 相原千里さん:
「何も情報を持たない、知らされていない。自分たちが対ソ連防衛の盾にされているなんて全然思っていない。(農地に)肥料をあげないのに作物が実ってびっくりした。まさかそれが(日本が)中国の農民から強制的に取り上げた土地だとは全然思いもしなくて」

一方、日本本土は…。
度重なるアメリカ軍の攻撃にさらされ、戦況は悪化の一途をたどります。

そして…、1945年8月15日 終戦。

しかし、豊村の開拓団にとってはこの終戦が悲劇の始まりでした。