
太平洋戦争末期。日本軍が劣勢を挽回しようと始めたのが、爆弾を積んだ航空機で敵艦に体当たりする「特攻作戦」でした。
県本土には多くの特攻基地があり、最前線だった沖縄へ若者を乗せた特攻機が飛び立ちました。
沖縄までの通り道になっていたのが、黒島の上空でした。機械の不具合などで4機が近くの海や山に不時着。
けがをした隊員あわせて6人を住民たちが看病し、世話をしたといいます。米盛さんは当時10歳でした。

(米盛レイ子さん・90)「(隊員)怖い人だと思っていた。怖いと思っていたけど慣れてみたら怖い人じゃなかった」