転機、そして執念がもたらした“武器”
春男さんには時間がなかった。食事量が減り、体力が奪われ、感染症に襲われ、自分も命を落とすかもしれないという生命の危機に対する恐怖心があった。同時に、ロシア語を教えてくれる通訳がいつまで同じ収容所にいてくれるか分からなかったため、彼がいるうちにマスターしなければならないという、先行きが見えない中での、残された時間との闘いでもあった。結局、真夜中のプライベートレッスンが始まってから3ヶ月が経過した頃、自分にロシア語を教えてくれた通訳の男性は、別の収容所へ転居してしまった。
「彼のおかげでロシア語をマスターできたよ。あれで助かったんだ。感謝しかないよ」そのロシア語が、春男さんのシベリア抑留生活における大きな転機となったのである。

通訳の男性がいなくなり、これからどうしようと思い悩んでいた頃、不思議なことが起きた。日本兵とは違う男たちの声が耳に飛び込んできたのだ。あまり聞いた覚えのない声、そして言葉。そこにいたのはソ連兵数名であった。彼らの会話の内容が聞こえてきたのだ。「彼らの会話の内容が分かるぞ、何を話しているかが分かるぞ」いつしか、春男さんは難解なロシア語をマスターしていたのである。
「やらないと人生が終わっていたからな」追い込まれた人間の執念がそうさせたのかもしれない。あるいは、人は生死がかかっていると、とんでもない力を発揮し、普段到底できないことでも成し遂げてしまうのかもしれない。

言葉を理解できたことは、春男さんにとって大きな武器となった。ソ連兵と会話できるようになったからだ。日常生活で意思疎通を図れたことで、ソ連兵からも一目置かれるようになり、いつしかソ連兵は春男さんに話しかけるようになっていた。その春男さんが、一世一代の大勝負に出る。
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CBCテレビ 論説室長 大石邦彦