「推し活」は今や政治の領域にまで広がっている。「推し」の対象の言動に無批判に従い、議論、討論の余地を残さない「推し活選挙」「推し活政治」は大きな危険性をはらんでいる。この状況に対処するためになすべきことは何か、関西学院大学神学部の柳澤田実准教授による考察。

経済を席巻した「推し活」

「推し活」という言葉が新語・流行語大賞の候補となったのが2021年。それから4年ほどの月日が経つなかで、「推し活」はますます一般化したように感じる。

今やファンは最も手堅い消費者とみなされている。映画館は何度も劇場に足を運んでくれるアニメファン、ゲームファンをターゲットに上映作品を選ぶようになり、アニメやアイドルとのコラボ商品が増え、観光客を呼び込もうとアニメ作品ゆかりの「聖地」が各地に増えている。

人類学者のスコット・アトランらによれば、人は、経済的価値に還元できない「聖なる価値(sacred value)」(注1) を様々な対象に付与し、その対象のために献身する心理的傾向を持つ。宗教のように制度化されたものだけではなく、例えば思い出の品を売ることに心の痛みを感じるような、日常的な場面でも「聖なる価値」の心理が働いている。

「推し活」もまた、ファンたちの献身ぶりを見ていると、やはり同様の心理が働いているように見える 。(注2)「聖なる価値」とは経済的な価値に還元できないプライスレスな価値だからこそ、ファンは推し活のために金銭的に時間的に多大なコストを割くし、節約することを忌避する。ごく最近風営法が改変され、ホストの「色恋営業」が禁止されたが、ホストに貢ぐために風俗で働く女性たちも、プライスレスな聖なる対象のために献身していると言えるだろう。

このように「聖なる価値」の心理を利用することは容易に搾取に繋がりかねないため、ファン・マーケティングには節度が必要であるし、ファンが極端な献身に走らないよう運営側に工夫が求められるのは言うまでもない。

「推し活」化する政治

昨年(2024年)以来、日本のメディアでは、経済だけでなく政治の領域でも「推し活」という言葉が聞かれるようになった。

7月の都知事選での石丸氏の躍進、11月の兵庫県知事の再選に対して「推し活選挙」という言葉が用いられ、同じ11月にはアメリカ合衆国で、強固なファンダムをベースに支持を集めるトランプ大統領が再選されたことから、この現象は世界規模のものだという印象も強くなった。

「推し活選挙」は、各政治家に擬似的な社会的関係を持っているかのように錯覚させ、親近感を抱かせることで支持者を動員する。会ったこともない相手に対して、実在する身近な人に対する以上に親近感を抱くことを、社会学者リチャード・ウォールとドナルド・ホートンは「パラソーシャル」と呼んだが、頻繁に目に触れさせることで感情移入をさせるメディア、特にSNSは「推し活選挙」で重要なツールとなっている。

一方的に親近感を抱き、神聖なアイドルのように政治家を「推す」ことは多くの場合、その提言する政策や政治家としての能力とは無関係であるため、この状況を不健全だと見る向きも当然ある。しかし、従来の議論、演説、討論といった言論活動を中心とした選挙活動で良いのかというと、それだけでは「推し活選挙」の興隆に対抗しきれないようにも見える。

従来の言説中心の政治活動の限界を考える上で、新世代の論客として注目を集めるイギリス人のサラ・スタイン・ルブラノの議論(注3)を参照してみたい。初の単著、Don’t Talk About Politics(2025)を上梓した(紙版の書籍は7月に公刊される)ばかりのルブラノはFuture Narratives LabというNPOに所属する政治と心理に関する研究者、ライターである。

ルブラノは、民主主義の危機が叫ばれ、多くの国で政治に対する信頼や関心が低下している今日、議論や討論(ディベート)が影響力を持つという暗黙の認識が、より効果的な政治的思考や行動の妨げになっていると主張している。

アメリカ大統領選でしばしば注目されるのが候補者同士の討論会だが、ルブラノによれば、討論を観たことが有権者の意見に影響を与えないことを示す証拠がある。

2019年、研究者たちは(注4)、1952年から2016年にかけて米国、カナダ、ニュージーランド、ヨーロッパで行われた22の選挙における56件のテレビ討論を分析した。この研究では、ほぼ10万人の回答者を追跡し、討論会が未決定の有権者や既に決めた有権者の意思決定に影響を与えるかどうかを調査した。

その結果、影響は全く確認されなかったと言うのだ。2012年には、『The Washington Post』の記者が同様の分析(注5)を行なったが、その結論もまた、討論会が最終的な投票結果に与える影響は、極めて軽微だということだった。