自宅で見つかった記録の原本 メモに「宝物」

東昭徳さん
「父親の書籍を置いておったんですよ、本やらたくさんあったから、その中の一つに、箱に入って、これと、原稿が入っていたんですよ」

フランス文学に関する資料と、被爆翌日に記録した原稿が見つかり、メモには「宝物」と記されていました。

東昭徳さん
「文章の中にも、ところどころにこれは絶対世に出さなくちゃいけない、誰か何とかしてくれないかなという綴りもあったからですね」

父親が残した日本で最初の原爆報道記録を東さんは2年前に書籍化。

そこには、潤さんが目の当たりにした長崎の状況が生々しく綴られています。

「目も当てられぬ程に大火傷を負った様々な、負傷者が車内にあふれて、まさに鬼気せまるその呻吟(しんぎん)や歔欷(きょき)の声が、ひしひしと私たちの肺腑(はいふ)をえぐり、また一種異様な腐肉(ふにく)の臭いが、鼻孔をついて、一入(ひとしお)惨たんたる憂愁をあおるものがあった」

目にした惨状「あらゆる語彙が無力となった」

すれ違う上り列車を見て不安に駆られる中、出発から12時間後の午前3時に長崎県の道ノ尾駅に到着します。

そこから3人は、徒歩で長崎駅に向かいました。

「就中(なかんずく)、恐怖という精神は、ひたすら襲われているためか、気だけで生きて、自らの足のかかとの肉を取られているのも忘れ、骨の足で、安全とおぼしい方向へ、無我夢中に、たどたどしい歩みで長い時間をかけて、逃げて来たと思ういたいたしい姿があった…」

灼熱の太陽が照りつけ瓦礫と化した長崎の街を潤さんは「悲劇の谷」と表現しました。

「死者のすべてが虚空をつかんだ幽霊の姿で焼けている。火の海の中で塗炭(とたん)の苦しみを嘗めた現れであろう。もはやこの惨状に対して、あらゆる語彙が今日限り私にとっては無力となった。」