婚約者の“最期の乗車位置”を懸命に探す

由起さんは決してふさぎこんでばかりいたわけではなかった。遺族や負傷者の有志による、“犠牲者の最期の乗車位置を探す活動”に加わっていた。
脱線や衝突の衝撃、救助活動の混乱の中で、犠牲者が最期に乗っていた車両、座ったり立ったりしていた場所が分からず、苦悩する遺族がいたことを受けて始まった活動だった。情報交換会も開催されるなどして、事故の生存者や救助活動に関わった人々から、地道に証言が集められた。

自らも2両目で負傷し、活動の中心的な存在だった小椋聡さん(55)は、次のように語る。
最期の乗車位置を探す活動の中心メンバーだった小椋聡さん
「“自分の家族が一番最期にいた場所の、せめて一番近くまで行って、お花を手向けてあげたい” “何か困難に直面した時に、話を聞いてもらったり、嬉しいことがあったよと報告できるような場所が欲しい”というのが、参加者の望みでした。手がかりだけでも分かれば、今後の人生の中で、何かの報告の時に手を合わせる場所ができるんじゃないかという気がしていたのです」

由起さんも、婚約者が2両目に乗っていたことは判明していたが、より詳しい位置を知りたいと、積極的に活動に参加していた。参加者らの思いをまとめた冊子にも、手記を寄せている。
「事故の瞬間の全てを知る事はできません。でもせめて、最期の位置を知り、その場へ行きたい。行ってあげたいと思うのです」
小椋さんによると、由起さんは情報交換会で証言を聞いていた際、他の部屋に駆けこんで泣いている場面もあったという。
小椋聡さん
「自分の愛する人の姿だったかもしれないという話をたくさん聞くのは、苦しかったんじゃないかなと思います。由起さんの場合は本当に、(婚約者を事故で喪って)体の半分を持っていかれたような感覚だったんじゃないかという気がします」

感情を抑えきれない場面があっても、由起さんが活動から離れることはなかった。
小椋聡さん
「みんなが一生懸命(最期の乗車位置を)探している仲間の中に入って、“私もみんなと一緒に頑張るよ”っていう雰囲気の中にいることで、かろうじて生きていたんじゃないかなという気がするんです」
しかし、思いは届かず、婚約者の最期の乗車位置の特定には至らなかった。














