2025年で終戦から80年。つなぐ、戦争の記憶です。8日は一夜にして400人以上が犠牲となった高知大空襲で、遺体を収容していた高知市の寺と空襲により住む場所を追われた90代の男性の話をお伝えします。
高知県高知市。現在、およそ31万人が暮らす高知県の行政や文化の中心地です。

企業オフィスや飲食店などさまざまな建物が建ち並び大勢の人や車が行きかう市民には見慣れた景色も、あの日は全く違っていました。1945年7月4日の未明50~80機ものアメリカ軍のB29爆撃機が高知市を襲った高知大空襲です。おびただしい数の焼夷弾が落とされて街は一面焼け野原となり、401人の尊い命が奪われました。289人が重軽傷。1万戸以上の建物が被害を受けました。

こちらは高知市筆山町にある要法寺。お寺の裏山には今も戦争の記憶が残されていました。
(要法寺 橋田文妙 住職)
「これが防空壕、片一方の入り口。もう一つ向こうにも入り口があって二つから入れるようになってます、多分思いっきり入れば200人ぐらいは(入れる)」

(要法寺 橋田文妙 住職)
「うちの母は真っ先に空襲警報鳴ったら、ここへ飛び込んで来てましたので」

明かりがなく真っ暗で蒸し蒸しとした、とても長い間いられないような防空壕の奥から、どこか戦争の陰鬱さを感じたような気がしました。
そんな要法寺は高知大空襲の後、遺体安置所の1つになりました。境内に並べられた遺体の数は、およそ200。空襲の犠牲者401人のおよそ半分の遺体がここにあったことになります。

(要法寺 橋田文妙 住職)
「電灯がありますけど、その電灯のあたりに遺体が山積みになっていた。今の車の入り口のところから入ってきた右側に山積みの状態で遺体があったということのようです」
それだけ遺体が集中したのは空襲によって遺体を供養できる場所が要法寺以外焼けてしまったためです。
(要法寺 橋田文妙 住職)
「(遺体は)多少焦げた状態で水を含んでいる遺体もあったり、そういう状態のままで山積みになっていたということのようです。特に7月ですので暑い時期でもありますから、遺体が腐食してることもありますので、どうしても風向きによっては家のほうまで異臭がして、食事ものどが通らないような状態だったという話は聞いています」
そんな話を橋田住職に伝えたのは、先代の父と母でした。しかし、戦後生まれで67歳の橋田住職は戦争に関する話を多く聞いていても当時の悲惨な状況を想像することは難しいようです。

(要法寺 橋田文妙 住職)
「空襲で亡くなっているということ自体、例えば映画とか漫画というとあれですが、それぐらいのものでしか見ることしかできないので、実感として亡くなっている方が目の前にいて山積みになるということは想像がつかないので…」

(澁谷雄さん)
「刃も凍る北海の御楯となりし2000余士…」(アッツ島血戦勇士顕彰国民歌)
戦時中、流行っていたという軍歌を今も覚えている澁谷雄(しぶや・おさし)さん。93歳。高知市出身の澁谷(しぶや)さんは、太平洋戦争開戦当時は旭小学校に通う4年生だったということですが、戦時中の学校で学んでいたのは…
(澁谷雄さん)
「運動場で軍事教練をしましたね、竹やりを持って相手を殺す練習、小学生の時、今、学校でそういうことはないでしょう、それくらい全て“国”よね、戦争反対者は国賊やった」

そして4年後の高知大空襲の日、澁谷さんは住んでいた旭地区から市の中心部が爆撃される様子を見たといいます。
覚えている色は、赤。

(澁谷雄さん)
「焼夷弾を落とす前に照明弾を落とされたらこんなに明るくなる、町が…町自体が、それで焼夷弾をどんどん落としだしたら、空を飛ぶ飛行機がね、真っ赤に見えた。町が焼けた明かりで、飛行機が真っ赤で燃えてるかと思った。それぐらい真っ赤に見えた。高知まで焼かれたらこの戦争は勝てやせんと、14歳の子ども心に思った」
澁谷さんはその後、空襲を避けるためおよそ10キロ離れた「いの町・八田」に歩いて避難することに。
(澁谷雄さん)
「(八田は)母の郷でね、『八田にいたら安心だ』ということで母が勧めて行った、歩いて針木を通って八田まで歩いたら遠かったですよ。本当、子どものころに歩いたねえ、14歳の時に。苦労しましたよ、食べるものもなし、飲むものもなし…本当苦労しました」

青春を戦争に囲まれて過ごした澁谷さん。食べるものにも困り、住む場所も追われましたが当時は戦争に対し、特別な感情はなかったといいます。
Q.当時から心の中では『戦争はいや』と思っていましたか?
「反対どうこうという気持ちは無かったね、小学生やったし」
Q.大人に言われるがままみたいな感じですか?
「そうそう、軍国主義一辺倒でね。何にもがお国のため、天皇のためやったね。「『耐えがたきを耐え忍び難きをしのび』と言ってポツダム宣言を受けたわけよね、その時に子ども心に『これで今晩からゆっくり寝られる』と思って、うれしかった」
そんな終戦から80年。世界ではまだ戦争が起きています。当時の自分と同い年ぐらいの子どもも戦争に巻き込まれている現状に、澁谷さんは80年経っても変わらない「戦争の罪深さ」を感じています。
(澁谷雄さん)
「なんでロシアがウクライナに攻め入ったかね…よその国へ武器を持って行かんということよ、戦争しないということを願いたいね。戦争が起きたら“わや”ですよ」