
児童が学校にいる最中に襲ってきた巨大津波。宮城・山元町の中浜小学校にいた児童90人は全員無事でした。なぜ、みなさんの命が助かったのか、そこには「避難マニュアル」に捉われない現場の判断・決断がありました。
児童らを救った「垂直避難」 迫る校長の決断
記者
「冠水している地域が、激しく見てとれるようになってきました」
海沿いにあった小さな町に、14年前、津波が押し寄せました。


かつて、小学校の周りには緑があふれていましたが、見る影もなくなりました。

海からわずか400メートル。当時、巨大な津波は校舎の2階天井まで達しました。

これは震災直後の様子です。木材や流木が流れ着き、天井も大きく壊れています。児童ら90人は、どのようにして「いのち」を救われたのでしょうか?

被災した児童のひとり、千尋真璃亜さん。当時、小学3年生でした。
当時この場所で被災 千尋真璃亜さん(23)
「(Q.地震が起きた瞬間は、何を記憶されていますか?)今まで経験したことのない揺れ。机を押さえながら潜っているんですけど、机ごと動いてしまって。もう、早く収まってという、その一心で揺れを耐えていた」
このとき、校庭でも多くの子どもたちが遊んでいました。
地震から、わずか3分後。

当時この場所で被災 千尋真璃亜さん(23)
「はじめ、津波警報が出ていて、5メートル、6メートルぐらいと言われていたのが、10メートル以上の大津波警報に切り替わって、その5分後くらいには停電してしまって、情報も得ることができなくなっていたので」

巨大津波の到達予想時刻は、10分後。無我夢中で屋上に避難し、目にしたのは「豹変した海」の姿でした。
当時この場所で被災 千尋真璃亜さん(23)
「黒い壁のようなものが防潮林の隙間から上がってきているのが見えて、それを見て初めて、『これが津波なんだ』という風に」
海の町で育った千尋さん。「津波」を知らないわけではありませんでした。

当時この場所で被災 千尋真璃亜さん(23)
「『津波』という言葉は知っていたんですけど、普段のこの穏やかな海の様子しか私は知らなかったので。今からあれに飲み込まれてしまうんだって、ここで命を落とすんだって、正直、思ってました」
屋上ぎりぎりにまで迫った津波。それでも、児童ら90人の命が救われました。そこには…

中浜小学校 井上剛 元校長
「ギリギリの判断です。もう、ここにはいられないということでした」
当時の先生らが葛藤しながら下した、ある決断がありました。