「おれ、お父さんと2人で大丈夫だよ」。9歳だった長男は、あの日、男性にそう言いました。男性は東日本大震災で妻と次男を亡くし、長男と2人で暮らしはじめました。その長男に、震災から14年を前に新しい家族が。父と息子、14年の物語です。

「2人で幸せになろう」14年前の“父と息子の約束”

岩手県陸前高田市。吉田寛さんは、一人で暮らしています。

吉田寛さん(47)
「(ゲームをしながら)今、ゲームも4Kの時代だから。これ4Kでやったらやばいよ。だから、きのう、朝4時までやってたからね。今は自分の人生を優先して生きてるからね。昔はそうじゃなかったけど。ひたすらその日の仕事を消化して、ゲームして、飯食って寝るっていう生活があれば、それでいいんじゃない」

当時のアナウンス
「ただいま、波が堤防を越えています。もっと高台へ避難してください!早く、早く、早く!」

14年前、津波が人々の大切なものを奪いました。

吉田寛さん(当時33) 2011年3月・自宅の跡地
「何もないな」

営んでいた電気店を兼ねた自宅は流され、寛さんと長男の芳広くんだけが残されました。あの日、寛さんが消防団の活動をしている間に、逃げ遅れた母と妻(当時33)、次男(当時5)が津波に流されたのです。その次男は2か月後…

記者
「弟見つかったね」
吉田芳広くん(当時9)
「うん。あした火葬だって。でも、おれ行かない。おれ行くと絶対泣くよ。やばいもん、おれ。お父さんね、寂しいなって。おれも寂しい」

吉田寛さん
「前に1回、お母さんの火葬には来たから、それでいいんじゃないですか。誰かの火葬と言えば泣いて、誰かの火葬と言えば泣いて。2か月という期間を、一日に1回どこかで泣くんですよ。おれでさえつらいのに」

避難所で2人の日々が始まりました。

記者
「お父さんの料理美味しい?」
吉田芳広くん
「肉だけ。ソーセージ」
吉田寛さん
「目玉焼き」

子育ては、それまで妻に任せきり。寛さんが芳広くんと、こんなに一緒に過ごすのは初めてでした。

吉田寛さん
「(芳広くんを抱え上げながら)まだまだ軽いな。悪いけど、お父さん何年たっても負けないぞ」

2人きりのドライブ、胸の内を明かします。

吉田寛さん
「お母さんいればもっと楽しかったな。父さん、助けられなかった。父さんがもうちょっと早く高台にのせておけば助かったかもしれない」
吉田芳広さん
「でもしょうがない」
吉田寛さん
「しょうがないな」
吉田芳広さん
「おれ、お父さんと2人で大丈夫だよ」
吉田寛さん
「お父さんも芳広がいなかったら、もっともっと悲しんでた。お父さんの宝だ」

震災発生から半年、電気店を再建した寛さんに工事の要請がひっきりなしに入ります。

吉田寛さん
「“子育てが大変だから行けません”とは言えない」

父の帰りを芳広くんは一人、仮設住宅で待っていました。

芳広くん
「お風呂洗うのは、おれの仕事って決まってる。洗濯は、おれが洗剤かけて、自分のやつは自分でやって。お父さん面倒くさいから、あまりやらないから」

芳広くん
「(作文を書きながら)願う?何願う?ぼくは、もしお母さんができたら弟を産んでほしいです」