昭和の南薩地域の観光を支えてきた指宿スカイライン。工事関係者の間では“難所″として知られてきました。

(親子2代で指宿スカイラインを整備 福永昭一社長)「ほとんど人の力と少ない機械で、ここの山を削り谷を埋めた。非常に難工事だった。非常に苦労したみたい」

親子2代での整備に携わってきた建設会社社長の福永昭一さん(67)です。

(親子2代で指宿スカイラインを整備 福永昭一社長)「(父は)『観光道路を早く完成させたい』と話していた。建設業は死と隣り合わせの仕事」
「スカイラインをつくった当初の人たちはもっと人力でやっていた。親世代が苦労して、ようやくできたスカイラインは指宿の観光道路としての役目を果たしてきた」
昭和63年には鹿児島から池田湖までの全線がつながりました。現在430円のところを当時、930円で結びました。