藤田まこととの出会い

それで、ADから始まった。その時、藤田まこと※ は、まだそんなに役がないんですよ。僕の方も(番組の)発端と最後の暇そうなとこを担当させられるわけ、慣れてないから。そうすると、藤田まことも暇なんで、2人でいろんなことしゃべって「早く一人前になりたいな、早く売れたいな」みたいなことを言っていた。2人とも昭和8年生まれで「同じ年だから頑張ろうな」って言ったのが「てなもんや」につながるんだけども。

※藤田まこと(1933〜2010): 俳優 コメディアン 「てなもんや三度笠」「必殺シリーズ」などで人気を博す。

テレビでの猛烈な仕事ぶり

澤田 その時はもうほんとにね、カット割りなんかも、みんな、消しゴムにひもつけてね、ずっとずうっと、夜中に直したり、稽古が終わってからは徹夜だったし。それから、本読み、ドライ※、スタジオでカメリハ、ランスルー、もういっぺん立ち稽古があって、それで、カメリハ2回やって、次の日また朝からカメリハ2回やって本番だったからね。

※ ドライ:ドライリハーサル カメラを通さずにやるリハーサル
カメリハ カメラを通してやるリハーサル
ランスルー 本番同様にカメラを通してやる最後のリハーサル

澤田 あれやらされたね。あれ、もしやれてなかったら恐らく、あんなに沢山番組作れなかったね。

松本 そうだね。

澤田 だから、週3本の単発番組やってね、早くやることを覚えた。その時の公開放送で何が困るっていったら、お客の大半がサラリーマンで、皆パンとか牛乳持って昼休みに来てるわけ。でもサラリーマンだから、12時45分になったら帰ってしまう。だから12時15分には絶対スタートしないといけない。

カメリハ終わって11時45分からの20分ぐらいの間に全部ダメ出しをする。カット割りのダメ出しと芝居のダメ出しをするという習慣がついた。早くまとめるやり方を、自分の中で全部マスターしていく。そういう意味では、その力が強くなったね。

松本 うん。

澤田 それをやってなかったら恐らく、プロダクション(1974年に澤田が設立した「東阪企画」)はやれてなかったと思うね。もうどんなことでもやれるという、その信念みたいなものがあった。

松本 あの頃はあれでしょう、1日4時間ぐらいしか寝てないでしょう。

澤田 ほとんど寝てないすね。大体寝てない。

松本 いまだに寝てない。

放送局と制作会社の違い

澤田 朝日放送で培ってもらったものは、いろいろ役に立ってる。計算してやってたかどうかは別にしてね。そもそも最初にポンとやらしてもらえたとか、そういう上司に恵まれてたっていうかな。いろんなことやらしてもらったことはプラスだよね、やっぱり。

松本 うん。

澤田 僕もプロダクションをやってから、いろんな世界を覚えたけど、朝日放送にいた時は、もうそれこそみんながいろんなことやってたんちゃうかな。それは視聴率取ってたから何でもやらしてくれるっていうより、視聴率取ってるからそれを守るのが大変だった。落とさないのは大変。

松本 仕事が殺到したけどね。取ってる人にみんな殺到しちゃうわけよ。

澤田 うん。

松本 無い人は仕事が無いんだけど、こっちはいっぱいあるから寝られない。

澤田 まあ、寝られなかったね。

澤田 で、プロダクションを作った。それが今のプロダクションにつながってんだけど。朝日放送の中でいろんなことやらしてくれたことが、全て制作に絡んでたからね。

松本 うん。

澤田 会社の経営なんてのは、もう一つ後の段階だろうけどね。テレビ局も混沌としていて、こうでなければいけない、といったことは特に大阪では無かったですね、儲かってしゃあない時だし、ね。

松本 右肩上がりだからね。

澤田 もう右肩上がりの職業だったから、やっぱりステーションってのは、それだけ楽やね。

松本 うん。

澤田 予算はそら厳しかったですよ。結構少ないし、そん中でやれ、やりくりして「赤字出すな、赤字出すな」って言われる。けどまあ、何とかやれたけど。その時、自分たちの月給考えることないじゃないですか。(経営者として)そういうこと考えるっていうのは、どんなすごいことかっていうのは分かってなかったね。

松本 まあ、何本も番組抱えてたから、適当にやりくり出来たじゃない。

澤田 そう、そう、そう、そう。

松本 ここは泣いてもらうけども、この次はちゃんと出すとかね、貸借関係、ちゃんと辻褄合わせられたっていうことが。

澤田 だから、(局にいた頃は)例えば便せん1枚でも、ボールペン1本でも、ちゃんとお金払わないと出てこないっていうことは、しばらく分かんなかったね。

松本 うん。

澤田 プロダクションやっててもね。どっか別から降って来るような気がどうしてもあるんだよね。これはテレビ局出身の人の、長所でもあり短所でもあるだろうね。そんなことばっか考えたら、番組なんか作れないもんね。

松本 うん。

澤田 来月どうしようかと思いつつ。割と能天気にやってたけどね。僕のその辺の部分は、ステーションにいた人の一つの特徴かも分かんないね。プロダクションっていうのも、全部生え抜きの人じゃないしね。

ステーションにいて、そこからこう来てるから、みんな分からないままに(局を)出て、あとに何か残ったか残らんかはもう何て言うか、才能というよりもツキ、ツイてるかツイてないかだろうね。そんなもんよ。もうね。
<本インタビューは2002年6月22日収録>

澤田隆治(さわだ・たかはる)氏略歴
1933年 生まれ
1955年 神戸大学文学部日本史学科卒業後朝日放送(ABC)入社
1958年 大阪テレビ放送(OTV)に出向、後に朝日放送に戻る
1968年 テレビドラマ制作に乗り出す
1970年 ビデオワークに出向
1974年 制作会社「東阪企画」設立
1994年 日本映像事業協会設立 会長就任
2012年 放送芸術学院専門学校校長就任、全日本テレビ番組製作者連盟顧問
2021年 没

【放送人の会】
一般社団法人「放送人の会」は、NHK、民放、プロダクションなどの枠を超え、番組制作に携わっている人、携わっていた人、放送メディアおよび放送文化に関心をもつ人々が、個人として参加している団体。
「放送人の証言」として先達のインタビューを映像として収録しており、デジタルアーカイブプロジェクトとしての企画を進めている。既に30人の証言をYouTubeにパイロット版としてアップしている。

【調査情報デジタル】
1958年創刊のTBSの情報誌「調査情報」を引き継いだデジタル版Webマガジン(TBSメディア総研発行)。テレビ、メディア等に関する多彩な論考と情報を掲載。原則、毎週土曜日午前中に2本程度の記事を公開・配信している。