放送界に携わった先人たちのインタビューが「放送人の会」によって残されている。その中から今回は「てなもんや三度笠」などの演芸番組、バラエティ番組のパイオニアとして放送史に大きな足跡を残したプロデューサー、澤田隆治氏のインタビューをお届けする。聞き手は朝日放送における澤田氏の後輩にあたる松本明氏(故人)。

就職難の時代、喜劇映画を見まくったのが、結果的に良かった

澤田 学校の勉強はもうだめだったし、しかも昭和30年っちゅうのは就職するには大変困難な時代だったんです。

松本 うん、うん、就職難。

澤田 新聞社とか、それこそ全部受けて全部落ちたね、見事に。放送局も当然そんなもん、NHKなんか通るわけない。もう、何百人って来てるんだから。

松本 うん、そうですね。

澤田 何千人て来てたかな。すごかったですよ。東京まで試験受けに行ったりしたけど、全滅して、一番最後に朝日放送※ がね、縁故募集してたのね。

※ 朝日放送:澤田氏の入社当時はラジオ単営局。 

澤田 縁故募集といっても、それでも何百人かいた。で、筆記試験があって、常識問題ってのが出てね、もう満点ですよ。

松本 ほお。

澤田 これだけ就職試験受けてんだもん。どっかで(同じような問題が)出てたもん、これは満点。作文もありました。「公開放送」っていうテーマ。で、1回だけ公開放送見てたんで、その模様を書いたら、それも良かったんだろうね。ともかく一次試験通って、二次試験は面接かと思ったらまた筆記試験。で、2人通ったうちの1人になったんですよ。

松本 うん、うん。うん。

澤田 (合格の理由として考えられるのは)子供の時からそんなに楽しみがないから、戦後になって映画をいっぱい見てたんです。

松本 うん。

澤田 もう、映画、映画だけ見てた。当時は寂しい映画が多かった。戦災孤児がどうなるとか、親子がバラバラになるとか、そういう映画を見ると、もう悲しくなるからね、喜劇ばっかりを探して見てたんですよ、洋画でも邦画でも。

松本 うん。

澤田 戦後作られた映画はもちろん見てるんだけど、エノケン※(1904〜1970)の、戦争とあんまり関係のない、東宝の初期の映画をね、どんどん毎週やってたのをずうっと連続で見てて、面白いなあと思った。エノケンって面白いなって。だから、どっちかっちゃ東京系のものをいっぱい見てるわけですよ。そんで喜劇とか見てて、楽しくて、辛いことは忘れるしね。

※榎本健一:コメディアン

澤田 で、親父がちゃんと生活出来るようになって、大阪に呼ばれて、大阪では実演ですよ、今度は。

松本 うん。

澤田 喜劇の実演を見て歩いてたね、学生服、特にジャンバー着たりしてね。だからそういう時間を楽しんでたのが、結果的に今につながってるかなと思うんだけど。

朝日放送入社後もお笑い担当の新入社員として寄席通い

澤田 で、結果制作部へって配属されてすぐ、「えびしょう※行け」と。

※ えびしょう:戎橋の松竹演芸場

澤田 「毎日寄席へ行け」って言われたんですよ。それでまあ、ずっと行ってたらね、ある日、朝会社行ったら、エレベーターん中で総務の人がね「おい、今度の新入社員で、お笑いが好きで入ったっていう変なやつがいるんだけど、誰?」とか言って聞いてんだ。僕なんですよ。だからつまり、お笑いやりたいっていう人間は実に変なやつだったのね。

松本 うん。

澤田 と言うのは、ラジオの当時はラジオドラマか音楽をやりたいって言って入ってくるのが普通なんで。でも、僕はお笑いしか知らんから。お笑いなら多少人より見てるって気があったからね。

松本 うん。

澤田 でも大したことないんですよ、実を言うと。すごい先輩がいるっていうことも全然知らんし、エンタツ・アチャコ※が法善寺※※に出てるなんて知らんし、当時、吉本っていうのはもう影も形もなかったすからね。

※ エンタツ・アチャコ:横山エンタツ・花菱アチャコ 有名な漫才コンビ
※※ 法善寺:紅梅亭、法善寺にあった演芸場

澤田 そういう放送の世界では、吉本って言われても分からないし、エンタツ・アチャコも当然知らないんだけど、そういうのを知ってる先輩がいっぱいいて、もうそこでは「ひよっこ」ですよ。そういう先輩の中で、まあ、若いから可愛がってもらえて「あそこ行け」、「はい」つって、言われたとおり朝から晩まで行って。

松本 うん。

澤田 戎橋松竹(演芸場)、朝日放送の専属の小屋でね、朝日放送の提灯がずうっと下がってるの。そのね、顔パスったらおかしいけど。当然「おはようございます」って入っていきゃ、向こうはもう大歓迎の小屋でしょう。朝日放送のプロデューサーで朝日放送の小屋。これがね、随分有利だったでしょうね、お笑いやる人間にとってはね。