被爆80年の元日、恒例の正月座り込みが行われ、被爆者や高校生らが平和公園に集まりました。

(田中さん)「私たちはこの被爆80年を核兵器を無くしていく核のタブーをもっともっと強くしていく、そういう年にしていきたいと思います。」
長崎被災協会長の田中重光さん。去年10月に、日本被団協のノーベル平和賞受賞が決まって以降、趣味の畑仕事に手が回らないほど多忙な日々を送っています。先月のノルウェーでの授賞式では被団協の代表委員として登壇。メダルを受け取り、ほかの2人の代表委員とともに、被爆者の顔として世界の注目を浴びました。
(田中さん)「やはり世界的にね、知られるようになっていったというかな、ノルウェーの人たちもそのことを本当に喜んでいるわけですたいね、今までの平和賞とは違うんだということをね、実際に苦しんでそれを使わせないためにね、活動してきた草の根運動が賞をもらったということをね、自分たちもできるんだと被爆者のことを理解して運動に参加すればね。」
4歳のときに爆心地から6キロの時津で被爆した田中さん。自身にけがなどはありませんでしたが、両親は、被爆後、体調を崩し、明るかった家庭に原爆が影を落とします。
(田中さん)「父も兵隊で救護活動に参加して57歳で肝臓がんで死ぬんですけども、そういう中で家庭の不和というかな、親父が母に暴力をふるうようになってね、それで(母は)何回か家出をしたんですけども。だからもし原爆にあっていなければ、体調が健康であればそういうこともなかったかもしれないしですね。」
田中さんは旧国鉄の労働組合での活動から平和運動に関わるようになり、被災協では被爆者の谷口稜曄さんとアメリカに渡り、核兵器の廃絶を訴えました。
(田中さん)「そういう先輩被爆者がいたからね、私もそういう後を歩いていったということで、もしそういう人たちがいなかったらここまでしてこなかったと思いますけどね。」
ノーベル平和賞授賞式の翌日、田中さんらはノルウェーの首相らと面会しました。
田中さんはノルウェーの核兵器廃絶をめざす姿勢に感銘を受けたといいます。
(田中さん)「ノルウェーはアメリカの核の傘に入って、NATOに加盟しているわけですけど、そこの国でもね、オブザーバー参加して、そして核兵器は廃絶しなければならないということを主張していくということを話されてましたのでね、そのことは本当に力強いことだと思います。」
一方、今月8日、田中さんら日本被団協のメンバーは石破総理と面会。核兵器禁止条約へのオブザーバー参加や被爆体験者の救済などを求めましたが、総理から満足な回答は得られませんでした。
(田中さん)「ひと言もね、被爆者援護について改善をするとか、核兵器禁止条約についてね、日本がどういう態度をとるのかということも一言もなかったですね。残念で仕方がありませんね。」
若い世代への継承も課題です。田中さんはノルウェーにメンバーを派遣した高校生平和大使にも期待をよせています。

(田中さん)「今年は核を無くすための勝負の年にしていきたいと思います。そういう中でみなさんの若い力がどうしても必要です。みなさんといっしょにですね、今年をがんばっていきたいと思います。」
(高校生平和大使 津田凛さん)「去年はノーベル平和賞を受賞したということでここからがスタートだと若者たち世代はとらえています。わたしたちがどう被爆者の方々の思いを次世代につなげていくか、そして核兵器廃絶を実現していくか、私たちもいっしょにがんばりたいと思っています。」
そして今月14日、田中さんは再びヨーロッパに向け、出発しました。現地で被爆体験などを証言し、核兵器廃絶への機運を高めるためです。
(田中さん)「体力的にはきついですけども鉄は熱いうちに打てということですから、このノーベル賞もらった力をね、伝えていきたい。」
田中重光さん84歳。被爆地長崎の思いを背負って、被爆80年のことし、核兵器廃絶の実現にむけ、力をふりしぼります。