手つかずの町「見慣れるなんてない」故郷のため奔走する美容師

あれから1年、高さんが住む町にはいたるところに仮設住宅が建ち並び、更地も増えた。
高響子さん
「景色が全然変わりました」
焼け野原になった朝市周辺は更地となり、地震で横倒しになった7階建てのビルも上半分は撤去された。それでも町には手付かずの家屋が、いまもあちこちに残っている。

高響子さん
「見てください、お家とか解体しないんですかね。壊れた家が解体されないまま置いてあるのを見るのは1年。正直苦しいです。見慣れるなんてないですよ」

番組が取材した、被災直後の高さん。自宅のある集落は道路が寸断され、一時孤立状態になった。義理の両親が営んでいた美容室は、2階から崩れ落ち、原型を失った。

自らも被災者でありながら、避難できない近所の高齢者たちを尋ね、物資を配るなど、奔走してきた。
近所の人
「ありがとう。これ(単三電池)が一番助かる」
高さん自身も、輪島市で美容室を営んで20年になる。
震災から1か月経った、2024年2月。何とか店を再開した。
断水のため、近所の山から汲んだ水を沸かして使う。

高響子さん
「軽くでもシャンプーしてあげることが癒しになる」
店には多くのお客さんが訪れ、賑わいを取り戻した。被災した人にとって数少ない憩いの場となった。
お客さん
「ここに来ると話が(はずむ)。家に居ても旦那と息子の話じゃね」
「家におると一人だから、テレビとにらめっこ。イライラしたらここへ来て、髪をバッサリ切ってもらう」
しかし、被災のストレスは、高さんの家族にも降りかかった。
2024年5月、高さんの義理の母、三四子(みよこ)さんが、長引く避難生活の中で体調を崩し、亡くなったのだ。
なぜ、母は死んでしまったのか。
高響子さん
「あの時に助かった命のはずなのに、なんで震災終わってから、あの時助かったのにどうして亡くなるのか、家族としては腑に落ちない」
妻を亡くし、一人仮設住宅で暮らすことになった夫の久男さん。
久男さん
「前向きにおらんと。沈んでいてもダメでしょう、自分ひとりになったしね」
母親の死後、高さんは、輪島市に災害関連死の申請をしたが、まだ認定されていない。