戊辰戦争で「官軍」を名乗って勝利した、明治新政府。維新の中心となった藩の名は今も県名に残り、「賊軍」側では岩手県盛岡市など藩とは違う名前にされた、という説がある。群馬県に生まれ「賊軍」の末裔を自覚しているという、RKB毎日放送の神戸金史解説委員長が11月19日放送のRKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』で検証した。

映画『十一人の賊軍』が快走中

映画『十一人の賊軍』がヒット中です。主演は、駕籠かきの政を演じる山田孝之さんと、新発田藩(新潟県)の剣士・鷲尾兵士郎を演じた仲野太賀さん。2人ともすばらしかったです。右往左往する家老(阿部サダヲ)など、脇役もよくて、何よりストーリーの設定が面白いのです。

ポスタービジュアル=©2024「十一人の賊軍」製作委員会

『十一人の賊軍』全国公開中
配給:東映
©2024「十一人の賊軍」製作委員会


ここに出てくる「賊軍」という言葉を考えてみます。戊辰戦争(1868~69年)は、鳥羽・伏見の戦いに始まり、江戸開城、上野戦争、会津戦争、五稜郭の戦いと続く内戦です。日本人同士が殺し合わなければならなくなってしまったのです。

日本人同士の内戦=©2024「十一人の賊軍」製作委員会

明治新政府軍は錦の御旗を掲げて、天皇の軍隊「官軍」を名乗りました。従わない藩を「賊軍」、天皇の敵である「朝敵」と位置づけ、戦っていきます。

最も「官軍」から狙われたのは、京都守護職に就いて、治安を維持した会津藩(現在の福島県西部)。当時の14代将軍徳川家茂や孝明天皇からも強く信頼されていた会津藩ですが、天下が変わっていく中で、「官軍」から敵視されます。会津など東北や新潟の諸藩が結成したのが「列藩同盟」で、新政府軍との戦いとなっていきます。新潟の長岡藩、福島の会津藩を新政府軍が猛攻撃しましたが、この映画では長岡まで攻め込んできた「北越戦争」が描かれます。

『十一人の賊軍』の1シーン=©2024「十一人の賊軍」製作委員会

ところで、私が生まれた群馬県には小さな藩がたくさんありましたが、私が生まれたのは幕府直轄領でした。祖父の祖父が明治20(1887)年に書いた日記を読んだことがあります。そこには一切「維新」という言葉が使われておらず、「御公儀瓦解の折……」と書いてありました。公儀とは江戸幕府のことです。完全に徳川側の視点で書かれていていました。私は幼いころから維新の志士が好きで、歴史の本が好きになり、大学で日本史学を勉強していたのですが、実家が「賊軍」、つまり殺された側であったということに気づいて、がく然としました。

「賊軍」藩名を採用しなかった明治政府

明治になって、廃藩置県(1871年)が行われ、3府(東京・大阪・京都)と302県が置かれます。261の藩はすべて県に変わりました。お殿様はそのままトップ(知藩事)になるのですが、すぐに全員が首を切られ、一気に72県まで減らされ統合していきます。この廃藩置県こそが、明治維新の一番すごいことなんです。権力構造ががらりと変わっていきます。

砦を守る戦い=©2024「十一人の賊軍」製作委員会

明治から昭和にかけて活躍したジャーナリスト、宮武外骨が1941年に出した『府藩県制史』という本には、こう書いてあります。新政府軍に忠勤を励んだ大藩がある県には藩の名を付けていますが、錦の御旗に刃向った”朝敵藩”や、日和見であいまいな態度だった”曖昧藩”の地域では、県名には藩名をつけず、郡・山・川の名を県名としたのだそうです。

※注:宮武外骨は、「其府県の名称に斯くまで順逆を表示した史実の存することを、何人も知らずに、ここ七十年を過して来たのは実に迂潤の次第であった、これも国体明徴の史実として、早速小学校の教科書にも入れねばならぬ程の事であろう」と書いています(『府藩県制史』94ページ)。