「本日もご安全に!」地底を掘り進む海底炭鉱での作業は命懸け

「あの海の下を1,000メートル下に掘ると、まだ誰も手を付けていない黒いダイヤモンドが眠っとる」。

劇中のセリフ通り、端島の炭鉱員が作業する坑道はかなり深いところにあった。「東京スカイツリー(634メートル)」を埋めても届かない距離といえば、その深さがイメージできるだろうか。

炭鉱員の仕事は24時間3交代制。坑道は地熱で気温35℃、湿度80%超えの環境だ。「炭鉱員にとっては掘る作業で使う体力よりも、熱い中での作業に慣れることができるかが重要でした。慣れていないと脱水状態になってしまうので、意気揚々と坑内に入って早々にバテてしまう初心者もいたと思います」と黒沢氏が説明する。

過酷な環境下で行われる炭鉱員の仕事は、文字通り命懸け。「危険と隣り合わせの坑内での作業は日々恐怖とのせめぎ合いだったと思います。落盤や坑内火災、そしてガス爆発など、坑内での作業は様々な命の危険と隣り合わせでした。特に切羽(きりは)と呼ばれる最前線で石炭を採掘する採炭員や坑道を掘り進む掘進員は、確実に粉塵を吸い込んでしまうので…」。予期せぬ事故はもちろんのこと、長きにわたり坑内で働くことで作業中に粉塵を吸入し、「珪肺(けいはい)」という病を患う可能性もあったのだ。主人公の父も長きにわたり炭鉱で働いているため、肺が限界を迎え週に3日しか働けなくなっている。

炭鉱での仕事は専門職。ジョブローテーションのようなシステムはなく、基本的に一度就いた担当から変わることはなかったという。そして、同じ炭鉱員でも坑外で働くほうが肺の病を患う可能性は低かったのだが、最前で働く炭鉱員はみんな自ら希望するのが基本だったそう。「採炭の仕事は一番給料がいいけれど、それは命を危険に晒す作業を覚悟の上での仕事でもありました」と、黒沢氏は思いを巡らせる。
原料がダイヤと同じ炭素であることから“黒いダイヤモンド”といわれた石炭。当時、端島が産出する石炭の単価は国内で一番高く、それ故に端島の人々は豊かな生活を送ることができたのだ。

黒沢氏は、福岡・筑豊の炭鉱で働き、その様子を記録に残した山本作兵衛についても言及。彼は後に国内初の「世界記憶遺産」となった自伝にこう記している。
「炭鉱は日本社会の縮図」――
日本各地から集まってくる島で働く人々の中には、企業のエリートだけではなく、さまざまな事情を抱えた人がいたという。「その環境は社会の構造そのまま。まるで端島が1つの国家のようだったんです」と、黒沢氏は現代日本を築き上げた、国家の縮図のような端島に思いを馳せるのだった。