シベリア抑留後に知った弟の被爆死

直登さんは、日記をずっと残していて、亡くなった日の8月27日は、ぷつんと切れて、亡くなってしまいます。シベリア抑留から戻ってきた五郎さんは、被爆原爆投下から3年以上経ってやっと帰国できましたが、大きなショックを受けて、ある決意を固めていきます。
五郎の独白:
弟よ。君の命日が来る。少年と呼んでいいか青年と言って良いか。十八歳で人生を終わった君の命日が来る。弟よ。人間の死には様々ある。君の頬の上に滴るのが、おふくろの涙だと知って死ねたことせめて幸せと思ってくれ。
五郎の独白:
わたしの手の上にずっしりと持ち重なりする日記帳がある。ひどく右さがりのおせじにも上手とは言えぬ文字で、十三歳のときから十八歳で死ぬるその日まで、十冊あまりの大学ノートにぎっしりと書きのこしたおまえの日記帳だ。
五郎の独白:
それは、人間の死ではない。みちあふれた十八歳の生命力をひき裂いて奪い去る死だ。その死によって中断されてしまったこの日記帳だ。よろこびや悲しみや、恋や、やがて愛する妻や子や、ながい人生が記録されるはずの余白を、あまりにも多くの余白を残したまま断ち切られてしまったお前の日記帳だ。
五郎の独白:
一九四八年十一月九日深夜。シベリアから広島に復員して帰ったとき、私はお前が被爆して死んだことを初めて知った。おふくろはお前の日記を前にしてそのことを語り、泣いた。私はその日を前の日記を読みふけり、夜明けを迎えて、帰国第一日の日記の最後にこう書きしるした。「五郎よ!直登の死に対する悲しみを怒りと憎しみに転化させよ!これからの人生で方向を失いかけたときは、これを読み返せ、五郎よ!直登の日記を読め!」と。
反戦平和の詩画家・四國五郎の「母子像」
直登さんの日記が大学ノートに残っていて、それをとても大切にしてきた五郎さんは、もともと優しい絵を描く方ですが、その中に怒りを感じる絵も少なくありません。『おこりじぞう』の絵もはじめは優しいんですが、途中からトーンが変わっています。今でも読まれているベストセラーです。
軍国少年だった五郎さんは、自分が戦争に行ったのに生き残り、一方で故郷にいた弟が被爆で死んでしまうということに苦しんでいたわけですが、戦争の記憶をきちんと伝えていくために絵を描く、と心を決めました。

五郎の独白:
弟よ
わたしはいまベトナムの母子像を描いている。幼い息子を抱き、娘をひきよせ、怒りと決意に光る瞳をもつベトナムの母子像を描いている。おまえを奪ったものへの憎しみと怒りをわたしはこの母子像にぬりこめる。侵略者にたいする勝利の確信にみちみちた母子像を!そして、なによりもまず母子を解きはなちがたく結び合わせている愛を、ひと筆ひと筆ぬりこめる。弟よ、おまえが死んでから二十年、書き続けている母子像の、その絵具の重なりの中に、私はおまえの日記の一行一行をぬりこめる。
五郎の独白:
人間のさまざまなつながりの中で最も根源的なものである、母と子のつながりを断ち切ろうとするものへの怒りと、決してそれを許さない母子の愛情をわたしは絵のテーマとして選んだ。おまえの日記帳がわたしにそれをさせた。母子の喜びの姿も、悲しみや怒りの姿も、原水爆と切りはなしては描けない。
五郎の独白:
弟よ、おまえが日記の中から話しかけてくること、おまえの怒りと悲しみがわたしの絵にどれだけぬりこめられている。見ていてくれるか。
弟よ
おのおののしあわせが、おのおのの生活が、おのおのの生命が、おのおのの祖国が、いかなるものにもおびやかされず、はずかしめられることのないために、そのためにわたしは母子像を描き続けよう。
