ジムさんが姿を消した真実ー

長崎外国語大学。創設者である青山武雄氏が戦後まもなく再建した国際的な青少年団体「長崎YMCA」が母体だ。

武雄氏の長男で、学院の元副理事長・青山 愷 さんは、中高生の頃、ジムさんと何度も会ったことがある。

ジムさんは、原爆投下から3年後、アメリカのYMCAが3年の期限で日本に若者を派遣したプログラムで来日し、長崎YMCAで英語を教えていた。

青山 愷 さん(91):「とっても明るい方で、誰とでもフランクに話せる方でした」

父が遺していたという資料の中に、ジムさんが突然姿を消した真実があったー。

ジムさんらが発行していた「平和新聞」。ジムさんは、長崎で「平和會」を結成し、平和運動をしていたのだ。

時は、朝鮮戦争のさなか。再軍備が進んでいた。

ジムさんは、「平和を守るには平和の方法を」と反対の声を挙げ続けたことで、「強制送還」となっていた。

青山 愷 さん:「アメリカの政府としては、GHQとしては、恐れていたでしょうね。アメリカ人がこういうことをやるということはですね」

平和新聞には、ジムさんからのメッセージも載せられていた。

『どうか戦争遂行努力に撲する無暴力抵抗と非協力に努めて下さい。これが大衆の最も強力な武器です。わたし達は世界をとりまくスクラムを組みましょう。それは戦争しようとしている各国政府も破る事は出来ないものです』

シュモー住宅時代からの住人・馬場 充夫 さん:「(ジムさんの)見方は変わらん。尊敬するような運動とかそういうことをされたからますます…とか、ちょっと非難されるようなことしていたとか聞いたとしても、私の中では変わらない」