甲府空襲を体験 伴野光子さん:
「砂糖はほとんど使われていなかった。配給でもなかった」
澤田屋に近い甲府市の桜町、今の中央1丁目で生まれ育った伴野光子さん87歳です。
女学生の手紙が書かれた1943年、昭和18年当時は7歳でした。
伴野さん:
「芋の中にご飯粒があるみたいなご飯とか、それも十分になかったから親が食べさせてくれるのを食べて生きるだけで精一杯だった」
そして、砂糖不足を告げる女学生の手紙から2年、甲府の街に「あの夜」が訪れます。
1945年(昭和20年)7月6日深夜、甲府空襲アメリカ軍が甲府の市街地を爆撃。
伴野さん:
「歩く後ろ後ろを、焼夷弾が落ちる。母が『後ろを見ないで まっすぐ見て、なんでもいいから走りなさい』って」
伴野さんは身重の母やきょうだいと笛吹市石和町にあった親類の家を目指して必死で逃げました。
伴野さん:
「焼夷弾の直撃で赤ちゃんをおぶった人が倒れたのを見た。だから、もう戦争は絶対嫌だと思いますね。
『助けちゃだめ、手を出したらだめ、戻っちゃだめ』と言われて。もう良心も何もない。自分が生きることだけ」