働かされていた「捕虜」たちも被爆

唯一残った「赤レンガ塀」は、幸町工場の敷地内にあった捕虜たちの収容所「福岡俘虜収容所第14分所」でした。

戦後、同じ場所で操業を続けた幸町工場に、捕虜だったオーストラリア人、レネ・シーファーさんらが訪れ、機械を前に涙する姿が記録されています。(1980年)

シーファーさんは当時の取材に「80人の友を亡くした。思い出すとたまらなくなって涙が出た」と話していました。長崎市の平和公園内には、外国人捕虜を追悼する記念碑が建てられています。

長崎原爆戦災史によると、「福岡俘虜収容所第14分所」には、インドネシア人、オランダ人、イギリス人、アメリカ人らおよそ400人が収容され働かされていて、推定60人~80人が即死、生き残った300人のうち200人は重軽傷を負ったとされています。

幸町工場全体の推定死者数は学徒、捕虜、従業員合わせて100人~150人、およそ90人がこの場で火葬されました。(長崎原爆戦災誌より)