10年以上にわたる徳田さんと保岡さんの対決は、奄美全土を巻き込んでいきました。両派の代理戦争となった1991年の伊仙町長選挙は、不在者投票の扱いを巡って、当選者が1年半も決まらないという異常事態となりました。

奄美群島区が鹿児島1区と合区した1993年の衆院選では、過半数を維持できなかった自民党本部が、無所属で当選した徳田さんを追加公認。しかし医師会は激しく反発しました。
(鹿児島県医師会 鮫島耕一郎会長)「徳田虎雄氏の自民党への追加公認は、県の医師会としては強く反対する。最悪の場合は(県医師会の)2300名の集団脱党に踏み切りたい」
徳田さんの自民党への入党は医師会の強い反対で取り消されることになりました。

(徳田虎雄さん)「(反対しているのは)首脳部の一部。日本医師会も私が指導しないと、医療界はうまくいかないのでは」
徳田さんは小選挙区制が導入されたあとも、鹿児島2区選出の衆議院議員を務め、2003年には4回目の当選を果たしました。
しかし徳田さんはこのころ、体を動かす神経が除々に侵されていく難病のALSを発症していました。














