新聞社が国に「標語募集」の後援依頼…4日間で約32万の応募

こうした標語はどのように作られたのでしょうか。
(記者リポート)
「防衛省の防衛研究所です。こちらに当時の新聞と国が標語に関して強くつながっていたことを示す資料が残されていました」
それは新聞社から陸軍への依頼文です。
【新聞社からの依頼文】
「強化標語を公募し、以つて一億国民蹶起の合言葉となし。御賛同の上、御後援賜はり度」
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新聞社のトップが、後に総理となる陸軍大臣の東条英機に、標語募集の後援を願い出ていたのです。この新聞社はその後、標語を募集。実際に陸軍や海軍が後援していました。
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さらに、太平洋戦争の開戦翌年の1942年には国が大手新聞社とともに標語の募集を行い、当時を象徴する「10の国民決意の標語」が選ばれました。
【10の国民決意の標語】
▼欲しがりません勝つまでは
▼「足らぬ足らぬ」は工夫が足らぬ
▼さあ二年目も勝ち抜くぞ
▼たつた今!笑つて散つた友もある
▼ここも戦場だ
▼頑張れ!敵も必死だ
▼すべてを戦争へ
▼その手ゆるめば戦力にぶる
▼今日も決戦 明日も決戦
▼理窟言ふ間に一仕事
わずか4日間で約32万の応募があり、当時の熱狂ぶりがうかがえます。国民から広く募集することで自発的に戦争に協力する雰囲気を作り出したのです。
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きっかけは大手新聞社が戦争で亡くなった兵士をたたえる歌詞などを募集していたことです。東京外国語大学の中野敏男名誉教授は「そのノウハウを国が踏襲してプロパガンダに利用した」と指摘します。
(東京外国語大学 中野敏男名誉教授)
「メディアですね。新聞とか雑誌が先行して1930年代初めに懸賞募集という形をつくっていたんですね。その形を1930年代後半、日中戦争以降の時期に国家が上から利用するという形になっています」














