「どこに行くかもわからない」「戦争だから誰も何と言うこともない」隠された住民の本音
一方で、翁長さんの一家は、葛藤していた。部隊にいる兄から、出征を知らせる手紙が届いたときのことだ。行き先は書かれていなかった。

翁長安子さん
「父親がそれが書けるもんか、しょうがないよ、もうそこまで行ったらお国のために働くしかないさ、と言ったときに、母親はこれを聞いて、泣いてましたよ。どこに行くかもわからない、ここまで育てたのは誰か、と言いたいさ、と母親が言ったんですよ。これ本音だなって思ったんですけど、言えないですよね。母はかわいそうだなと思いました。本音を吐いたなと思いましたけれども、なんか悲しいけれどもその思いが口に出せない、という、昭和19年(1944年)になってからの思いでしたね」
その年の暮れ。司令部は、翁長さんの自宅近くから、南風原町津嘉山の小高い丘に構築した壕に移動していたが、より強固な壕を求め、首里城の地下に移っていった。
そのすぐ近く、首里高校の前身、県立第一中学に通っていた與座章健さん(94)も、軍に学校を追い出され、陣地構築の日々を送った。

與座章健さん
「首里城というのは沖縄の聖地ですから、あんなとこにね陸軍司令部壕はいかんという気持ちは何となくあるんだけども、戦争だからね、誰も何と言うこともないし気がついたら…戦争はみじめだよね」
卒業まで一年を残し、強制的に繰り上げ卒業。鉄血勤皇隊に組み込まれ、家族に最後の別れを告げて来るよう命じられた。
與座章健さん
「(実家に)一晩か二晩おって、首里に戻るとき、あのときの悲しい思いっていうのはもう忘れられない。僕の一生はこれで終わりなんだなと思いながらさ、トボトボ一人帰っていったこと忘れられません」