1か月間続いた「男4人の合宿生活」

その後、御手洗さんとお兄ちゃんは外に出ることもままならず、事件に伴う手続きや買い物などには高原さんと私が出て、家事は大人3人で分担しました。私は主に料理担当でした。本来、御手洗さんを見守ることが高原さんと私の務めでしたから、ずっと他愛のない話をしたり、御手洗さんが撮りためたスポーツのビデオをみんなで見たり。

どこか張り詰めながら、平穏を演じているような日々の、ある夜でした。御手洗さんがテープを選び間違えたのか、家族で撮ったビデオを再生し、生前のさっちゃんも映っていました。高原さんと私は慌てましたが、御手洗さんはあれこれ話しながら、しばらく見ていました。でも、御手洗さんも動揺していたと思います。その後はもう見ることはありませんでした。

けれど、一つ下の階では福岡からの応援記者も加わってごった返し、隣の警察署からは胸を刺すパトカーのサイレンが聞こえ、何よりお兄ちゃんが学校にも通えない生活はすぐに限界がきて、御手洗さんは転居を決めました。支局から離れた暮らしでようやく少しずつ日常を取り戻し、御手洗さんは「心配しなくていい。もう大丈夫だから」と、高原さんと私に帰るように言い、男4人の合宿生活は終わりました。事件から1か月余りが過ぎていました。

20年経って知った子供たちの“想い”

あれから20年。実は、私には一つ痛恨の思いがあります。下のお兄ちゃんのことです。事件直後からそばにいながら、当時中3だった彼の痛みには寄り添ってあげられなかったことを、当時佐世保支局員だった川名壮志記者の著書で知りました。今月2日、毎日新聞のインタビュー記事にもこうあります。

“(事件発生後、中学校に)迎えに来た御手洗さんは顔色(かおいろ)を失い、別人のようだった。「父まで失うのではないか」。急に怖くなり、安心させるために父の前では笑顔でいようと決めた。その後は、できるだけ気丈に振る舞うように努めた。妹の同級生は心のケアが必要だとしてカウンセリングを受けるよう案内されたが、実の兄である自分には、そうした声はかからなかった。「周りの大人に腫れ物扱いされていたように感じた」”

――その「大人」の一人が、私でした。実は昨日(6月20日)、当時のことを妻に聞く中で「あの日、私が佐世保に向かおうとしたとき、子どもたちも『一緒に行く』って聞かなかった。『あっちは大変だから残って』って言ったら、『〇〇(次兄)はどうするんだよ!』って。『大人ばっかりじゃないか』って。それで連れて行ったの」と。初めて聞きました。子どもたちが気付いていたことに、私は気づけなかった。いつか会って、ちゃんと謝らなければいけないと、心から思っています。

以上、あくまで私から見えていた事件当時をお話ししました。御手洗さんとお兄ちゃんの今の思いは、ぜひ毎日新聞デジタルでお読みください。ようやく最近、怜美ちゃんの遺品整理に手を付けられるようになった御手洗さんは、そのインタビューの中で「事件と自分との終着点は今も見えないが、息子2人の家族が穏やかに生活できれば、俺は幸せだ」と話しています。そう言えるための20年――だったのかもしれません。

◎潟永秀一郎(がたなが・しゅういちろう)

1961年生まれ。85年に毎日新聞入社。北九州や福岡など福岡県内での記者経験が長く、生活報道部(東京)、長崎支局長などを経てサンデー毎日編集長。取材は事件や災害から、暮らし、芸能など幅広く、テレビ出演多数。毎日新聞の公式キャラクター「なるほドリ」の命名者。