民放の後に公共放送OHKが誕生

各務
で、沖縄放送協会の話になるんですが、OHKは開局からずっと会長でいらしたわけですよね。

川平
はい。

各務
設立の経緯っていうのはどういうものだったんでしょうか。

川平
長い話になりますけれどもね。「沖縄が日本に復帰しない限り日本の戦後は終わらない」と言った佐藤総理が来た時に、先島までは足を運んでですね、「テレビ局をプレゼントする」と言ったんですよ。

そうするとですね、日本の郵政省では、そういうテレビ局設置のための設置室とか何とかというのを作って、もうどんどん進めていくわけですよ。で、そのための調査だとか、置局のことについてはNHK が全面的に協力するわけです。そうすると、ハードウェアはどんどんどんどん出来ていくわけですけど、それをどう運営するのかという話になるわけですね。

じゃ、誰を会長にするかという話になった時に、これも不思議なあれなんですけども、私はもう公共放送に行くつもりでいたんですよ。で、RBCの社長で座安さん※という人がいたんですけども、その社長に「座安さん、いや、社長、今度公共放送が出来たらね、私はそこに行きたい」と。

※ 座安 盛徳 琉球放送初代社長

各務
まだそのときは30代でした?

川平
40になってました。

野崎
で、それは正式な沖縄返還の前からそういう公共放送の事業の、何ていいますか、整備をですね、始める場合、資金的には政府の融資を受けるっていう?

川平
そうなんですよ。ですから、私が会長になった時にですね、あのときに「融資」とは言わんで、投資そのままもらっとけばよかったなと思ったんですけども(笑)、しかし融資ということで、これは、復帰のときにNHKが施設一切全部譲渡を受けるわけですけれども、そういう融資についてはNHKが返済しましたよ。

野崎
ああ、そうですか。するともう協会をお作りになった時に、将来的にはNHKへ行くんだっていう沖縄側の態勢と、NHKがもう引き取りの準備を既におやりになってたと。

川平
それはやってくださったと思うんですよ。第一ですね、私はあの出来た時に、「副会長と、それから編成制作担当の理事はですね、NHKから出してください」と。で、NHKにお願いして、で、これもですね、私は琉球政府に対して「役員はそういう構成でいく」と。それから、出向をお願いしたんですよ。