「人が多すぎて息ができなかった」…飛行機好きの少年が見た爆撃
粟遠奎さん(90)は飛行機が大好きな少年だった。日本軍の爆撃機が飛んでくると外に飛び出し、その数を数えるのが常だった。しかし。
粟遠奎さん
「爆撃によってたくさんの人が死に、飛行機は怖いものだと分かったのです」

1941年6月5日。日本軍の爆撃機が重慶に迫り、空襲警報が鳴り響いた。度重なる爆撃から逃げるため、市民たちはあちこちに防空壕を掘っていた。粟さんも家族と一緒に近所の防空壕に逃げたがあまりに人が多すぎて酸素が薄くなり、息ができなかったと振り返る。
粟遠奎さん
「人が折り重なっていました。みんな寝ているように見えたのですが、実は息ができなくて死んでいたのです。私は、死んだ人の下から発見されました」
やっとのことで防空壕から這い出た粟さん。目の前に広がっていたのは、廃墟となった重慶の街。そして、多くの死者だった。
粟遠奎さん
「多くの遺体を川に運びました。当時『空から災いが降ってくる』と人々は言いました。私たちに何か落ち度があったのでしょうか?日本軍は中国を侵略し、財産を破壊し、生活を無茶苦茶にした。それは罪深い行動でした」
一緒に逃げた2人の姉は、見つからなかった。6月5日の爆撃だけで数千人が死亡したといわれている。
粟遠奎さん
「日本の若い人には、歴史を忘れずに学んで、教訓を生かし、将来同じことが起こらないようにしてほしいです」
「私たちはすべての戦争に反対し、平和を愛さなくてはなりません」
「今思い出しても苦しい思い出…私は日本が嫌いです」
92歳の陳桂芳さんは爆撃で両親を失った。
陳桂芳さん
「まるで雨のように爆弾が落ちてきました」

母は即死。父は重傷を負い、爆撃の翌日、死亡した。陳さんの頭の中には爆弾の破片がまだ刺さったままだという。裕福な家だったが爆撃によって家族も財産もすべて失った。
陳桂芳さん
「日本はあちこち爆撃して、本当に悪かったです。私は日本が嫌いです」
「今思い出しても、本当に苦しい思い出です。なぜ重慶を爆撃しなくてはならなかったのでしょう」