Nスタやまがたでは、
「つなぐ、つながるプロジェクト」として、きょうから「終戦」を考えていきます。

きょうは、山形県村山市の小さな平和祈念館の館長と、
98歳の元シベリア抑留者に「戦争と平和」への思いを聞きました。

山形県村山市楯岡小学校のすぐそばにあるこちらの民家。

看板には「小さな小さな平和祈念館 宇宙の片隅に」と記してあります。

館長の下山礼子(しもやま・れいこ)さんです。
3年前に自宅のガレージを改装して記念館を開館しました。

館内には、下山さんの友人や知人、全国の有志から寄せられた、「戦争を伝える資料」数百点が並んでいます。

平和祈念館が生まれたきっかけ、それは。

下山礼子さん
「まず、この絵巻物がなければ、おじがこれを残さなければこの祈念館もないし、今現在の私もない」

下山さんの叔父で、シベリア抑留を経験した、
澤田精之助(さわだ・せいのすけ)さんが書き残した絵巻物です。

1945年 昭和20年8月、
第2次世界大戦 終戦後、満州などにいた日本軍の兵士らは、
シベリアなど旧ソビエト連邦とモンゴルに送られ、捕虜として強制労働を強いられました。

その数およそ60万人。山形県内でも1万5850人もいました。
そして、氷点下40度以下の厳しい寒さに加え、食料不足と重労働で、およそ6万人が亡くなりました。

澤田さんも、ソ連軍の捕虜としてシベリアの炭鉱で3年間働かされました。
絵巻物には、生きるか死ぬかのギリギリの状況の中で味わった様々な記憶が、書と絵で綴られています。

小さな小さな平和祈念館
下山礼子さん
「前書きには『二度と戦争はしたくない』と書いてある。
最後は与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』と結ばれている。
戦争に反対することと、あとは自分の命を大切にしなさいということを(絵巻物を)読んですごく感じた」
東根市に住む、98歳の羽柴正吾(はしば・しょうご)さんです。

羽柴さんは、シベリアのビロビージャンなどに4年間抑留され、穀物の積み下ろしや木の伐採、炭鉱での労働を強いられました。

羽柴さんを苦しめたのが、マイナス30度。
シベリアの「極寒」でした。

羽柴正吾さん(98)
「マイナス30度というと、手で鉄棒をつかむと手が開けられなくなる。手が(鉄棒に)くっついて。
(顔を指さしながら)この辺から白くなり、凍ってくるから。早くマッサージしないと(皮膚が)腐れてくるから」

さらに追い打ちをかけたのが「極度の飢え」
食べ物がなくなると野草を食べていましたが、ついには耐えきれなくなり・・・。

羽柴正吾さん(98)
「ネズミがいるし、山に行くとヘビがいるから。
ヘビもカエルもいる。ヘビもしめて食べた。マムシ」
Qマムシも?
「マムシも食べた。赤痢みたいになって、検査で、病院に入院した」

過酷な抑留生活を終え、命からがら東根に帰ることができた羽柴さん。

今、羽柴さんの胸を痛めているのが、ロシアのウクライナ侵攻です。
侵攻からまもなく半年になりますが、未だ終わりが見えません。

羽柴正吾さん(98)
「毎日要所要所壊して、焼いて殺して、どうしてそんなに殺されなければならないのか。
とてもじゃないけど耐えきれない」

「戦争」と「シベリア抑留」。
2つの地獄を体験した羽柴さんが、今、国際社会とこれからの日本に望むことは?

羽柴正吾さん(98)
「今の侵攻を絶対なくす。やめる。(戦争を)しない。
中止することだ。七十数年、平和できたのだから、ずっと戦争をなくして平和を続けていきたい」

そして下山さんは、
「平和維持のために必要なのは『武力』ではない」と、強く訴えます。

小さな小さな平和祈念館
下山礼子さん
「理想と言われるかもしれないけれども、やっぱり外交努力。国と国との話し合いを進めるしかないと思う。力と力でやっても、また同じことの繰り返しなので。
第3次世界大戦にならなければいいと、今はそれだけを願っているので」

「小さな小さな平和祈念館」は、
山形県の村山市立楯岡小学校の手前50メートル、住宅街の中にあります。
下山さんが在宅の時に開いているそうです。
祈念館の電話番号は(080-2219-2108)です。