咄嗟にイモなどを蓄える穴蔵に入った築地さんにケガはなく、がれきの中から助け出され、山手の防空壕に避難しました。


防空壕で3日間を過ごした築地さん。中では、人々が次々と息絶えていきました。遺体は外に出され、何人かまとめて荼毘に付されていきました。


築地さん:
「あんな服なんて、みんな着てないの。みんなボロボロで裸やもん。本当はね、もっと酷いよ」
香蓮さん:
「それをやっぱり描くのは辛かったですか?」
築地さん:
「そうそう。だからね、もう鎮魂の思いというかな、半分はもう祈りながらね、お祈りしながら描いたもんだ」
香蓮さん:
「じゃぁ、お洋服とかも着せてあげるというか、そういう思いなんですか?」
築地さん:
「うん」

やっと防空壕から出た築地さんは、木場町に疎開していた祖母と再会し、2人で、浦上天主堂下の自宅へ向かいました。
自宅は跡形もなく、家にいたはずの祖父・重太郎さんと叔母・キノエさんを探しました。


築地さん:
「こんもり土が盛り上がったところがある。そこの上を見たら、うちのおじいさんが、手はこうしたまま黒焦げになって亡くなってた。勿論もう、どう表現したらいいか、さんまの焼き過ぎみたいに真っ黒焦げ。ボロボロになって…歯はこうして、こういう状態で見つかったわけ。それも半分、上しか見つからんわけさ」

そして、母親代わりだった叔母・キノエさんは──


築地さん:
「骨盤か何かしらん。このぐらいの塊が、黒焦げの塊があった。だからそれをキノエ姉さんということで同じく荼毘に付した。でもね、何年経っても、その信じられない。どっかに生きとるのかもしれない」
香蓮さん:
「どういった方だったですか?」
築地さん:
「そうねぇ、まだ22~3歳だったけども、県庁に勤めとった。長崎の県庁にね、うん。うん、優しい人やったな」


幼い頃に父を亡くし、母とも別れた築地さん。
原爆は、そんな築地さんからさらに家族を奪いました。


香蓮さん:
「ご実家があった場所だったりとか、この長崎の、この場所で、あの惨いことが起きたんだっていうのをすごく実感しました」


原爆後、築地さんの人生は大きく翻弄されます。

後編は「学校の ”形見” で描いた 語り部画」
原爆の絵を描き始めたきっかけと、絵に込めた思いです。